神様を信じないひと
神様を信じないひとは、悪人かどうかって話。
ふと、そんなことを考えていた。すごく極端な話だし、すごく理解しがたい話。
じゃあ、アングリマーラは善人なのか?という問い。
宗教してる人は即答かもしれないね。
実際に、じゃあ、どうなのかって私の考え方でしかないけど、すごく考えたから、私のお話をする。
神様を信じない人、は、悪人という感じはしない。むしろ、人間の限界があるなかで、人の役に立とう、って、この世的にすごく頑張っている人が多いと思う。それで、身体を壊したりする。
かえって、神様を信じる人は、思いのなかで、神様に愛されることが幸福だとして、信仰のなかにある善を選んでゆく。神様を信じない人とパッキリ分かれちゃう人もいる。光が足りない足りないって、神様によりすがろうとすることもある。
実際、精舎に行けば光は与えられて、調子が良くなることもある。たしかに、霊的には、そのとおり。
でも、神様を知らない人が悪、となるかは、すごく丁寧な説明が私は必要だと思うんだ。
実際に、霊的にはどう映るかって、理性で道徳的に生きようとする方には、おどろおどろしい怨霊だとか悪霊なんかは、見受けられない。けど、悪魔、と呼ばれるもの、は、ある。
悪魔と地獄霊、怨霊、生霊、みんな、ネガティヴでいっしょくたに考えたいけど、実は、それぞれ、働きや特徴が違う。
悪魔って、あのホラー映画にでてくるような様子か、と言われると、霊的に、仏の光をびしゃーって浴びせると、実際に、本当に、ああゆう様体ではある。小さいやつもいるし、大きいやつもいる。
でも、ずーっとはりついているわけではなくて、むしろ、神様を信仰しない意識の部分についているものだから、その場面、つまり、神様を信仰しない信念たる根拠に心や考え方が集中すると、憑依する形であらわになる。
これは、自分も他者も、そういうふうになっていて、生理的かつ衝動性の強い拒否感情で表現される。
それを可視化すると、映画に出てくるような様体のものが見える。つまり、霊能者さんは、話さなくても、それが視えるから、どんな思想を持っているかも、それでわかる。
(だが、あまりやらない。意味がない。話せば済むこと。)
神様を信じている人は、信じていない人と話をするときに、その念波を感じる。一度経験したことがある人ほど、その念波を感じると、悪魔だとわかってしまうから、それで、そうした表現をする。
かえって、怨霊だとか生霊だとかの類は全然違う。
怨霊だとか地獄霊だとか、恨みつらみがすごいやつがある場合は、積極的に、その人の人生を、この世的にも破壊しようとしている。本人(地獄霊)に、その自覚がある人もいるが、そうでないものも多い。
精神的に壊れてしまったような状態の幽霊なので、何やらかすか、わからない恐怖がある。
比して、悪魔は、すごく冷静で、知性がある。それに、この世的に不幸にさせようという腹はまるでない。この世的に幸福になるために、信じているやり方を捨てなかった者たちなので、つまり、偽我そのものの塊でしかなく、神様の教えよりも、自分の考え方を選び続ける、または、広めようとする幽霊なのだった。広めようとは思っておらず、その幸福を増やしたい、とさえ思ってるかもしれない。
つまり、悪魔は幸福を放棄してはいない。
その幸福が神が教える幸福の内容ではない、だけなのだ。
悪魔は、この世的な幸福を謳い、あの世での幸福を無視するもの、だ。
かえって、怨霊や地獄霊は、神が教える幸福とか考えもせず、不幸な自分に集中しているかんじ。だから、不幸感覚は強い。
不幸感覚が強い意識に憑依する形もあるし、なにかしらの縁で呪ってる場合もある。憑依は、人を介しての場合もあるし、場所でたまたま偶然出会うこともある。もちろん、あちらからしか見えない。その場所で、あちらから魅入られる、にも、理由はあるだろう。また、家系的な縁もある。
つまり、幸福だと感じている人でも、悪魔が憑依する意識は、部分的には持ちえる、のだ。
このあたり、過去と今が貫いて、自分の傾向性がどちらにも強く出る。つまり、過去世で学んだ宗教や思想を共有した、今の自分が覚えてもいない死んだままでいる友人、の場合も多くある。
この部分を、限りなく減らそうとする誓願が、六波羅蜜であり、その方法論として八正道がある。もちろん、方向は、根本仏を頂点として、そこに向けての自分磨きでなければ、意味を持たない。
生霊も、また、違う。生霊は、守護霊が本人の意識とまじりあって、すごい念力を飛ばしてくるのだが、それ自体は、生霊を飛ばしてくるものの人のせいにするものすごい心の力技、でもある。これは、神様を信じていようがいまいが、誰でも出せるし、八つ当たりに近い。
でも、八つ当たりだと生霊を飛ばしてくる人は思っていなくて、おおよそは、二者間にある勘違いや、理解しあいきれない、自己保存でもある。実際、生霊を飛ばす方が悪いかというと、そうでもないことがある。だからといって、生霊を受けた方が、絶えず、ひとを幸福にできるかというと、そうでもない。
そう、全部、簡単に、サクッと考えることは難しい。
簡単に考えるなら、どうしても、根本仏にすべてが帰依すること、それぞれが根本仏に向けて自分磨きをしていること、が、前提になる。
だとしたら、神様を信じない人はどうその考えや想い、を、考えたらいいの?
それは、この世的に…という意味であって、あの世を含まないから、やはり、悪魔の範疇となる。
じゃあ、悪魔が憑依する人って、怖いんじゃないの?って話なんだけど
悪魔が憑依するかは別として
(神様を信じない想いに劇的に集中しないとあらわれたりしない。
正直なところ、まるで怖くはないよ。むしろ、いい人が多いよ。素晴らしい人もたくさんいる。
だから、なんだかなあ、、、って今日考えてた。
実際の、現実的なチカラを持って、幸福を実現するチカラを研鑽してきた方ばかりなんだもん。優しいし、道徳的だから、かかわりやすいし、心地よい。感謝もたくさん表現する方が多い。マナーも素晴らしい。気遣いも細やか。
私、感情的なのは苦手だからかなあ、、って思う。
だから、考えたんだ。
地獄と天国、で、悪と善をわけるなら
この世で感じた苦しみが消化してない部分が消えるまで、地獄に一定時期行くなら
地獄に行かない方々って、ほぼいないから、私も行くだろうし
そのとき、救いの縁がないというのをさして
地獄に停留する時間が長いことを悪だと言う意味で
神様を信仰しないひとは悪人だと、ちゃんと説明があるほうがいいなあって、
だって、未熟なのは、信じてる人も、また、同じじゃないかな?
だってさ、神様の威光、が、そうやって、人の役に立つことや、幸せになることを、もっともっと自分がわからないことや気づかないこと、知らないことを教えてくれるように導いてくれるものだって
信じられる世界に広がらないのなら
その自分の感化力をもって、悪にはならないと思うけどさ、自分をあきらめないで、伸ばしていけばいいんじゃないのかなあって
ひとの悪ばかり見ないで、自分の感化力が、自分の信仰の心のほうの精進だと思ってたら、
いいんじゃないのかなあ?
って私は思うたのであった。