らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

左か右か

ラインで聞かれたことを書いてみる。

左と右になにか意味や特徴はあるのか?

私の調査と研究によるお答えですが、「あります」。

ひとによって、左から始まるのか、右から始まるのか、そのあたりはまだ、調査中です。調査対象者が少なく、データの蓄積としても「怪しい」です。

その状態をとって、自己観照をするひとつのよりどころ、参考にすることはできるくらいの被験者、調査量はあります。でも、その痛みや違和感をとって、今、貴方は、このあたりの段階ね、とは言いづらいです。そのあたりは、帰天後をお楽しみにされるほうがよろしいと思われます。


ちょっと長くお話していきます。

ひとは相対比較で生きています。仏法真理を学んでいる皆様は、絶対基準で生きることを旨としておられると思いますが、そうではない皆様は常に「相対比較」の基準で生きています。


私達は、問題改善をするとき、たいていは、問題の原因を考えます。問題をとりはらおうとするとき、悪いところやだめなところを改善するために、それを見るからです。

日本は、法治国家であるので、法に基づいて社会は形成されています。私達が問題改善するとき、法に基づいて「責任追及」をしたり、「責任配分」を考えながら、自分の責任をとる形で、社会的信頼、を得ているものです。

なので、どうしても、「相対基準」のなかで自己研鑽を行う必要があるために、自分をふりかえる作業そのものが、「相対基準」になりがちなのです。

よりよい社会を形成するために、現実的な幸福の水準を高めようとします。お互いに譲り合って守る行動基準が、「法的根拠に基づいた個人が負うべき責任」を法で与えられているとも言えます。ですから、それは、「立場」で考えられるように、できています。「立場」とは、相対的な概念であるので、法治国家の考え方は、相対基準でできているとも表現できます。

ですから、相対基準が完全なる悪、だとはいいがたいのです。

ですが、私達の心を仏に向かってよりよい方へ進ませるときに、その社会基準で「想う」ことは、心の成長を意味しません。心の成長とは、「誰かと比べて自分はこうだ」の世界ではないからです。

「さんさんと太陽のように与えてくれる仏の光に導かれて、仏の理想に向かって精進を重ねる過程を経て、私達の心が仏により近いもの、またはひとつになろうとする」働きそのものが、心の成長だからです。

身体は食べ物を食べていれば、勝手に大人になっていきますが、心は仏の光を栄養としますから、仏の光をじゅうぶんに与えられることで進んでいきます。ですから、常に、仏の光で満たされること、つまりは「ヒーリング」や「癒やし」を積極的に行う必要があります。

(このあたり、わかっていない方が多い)

でも、その精進は、「仏ー自分」という一方向にある絶対基準の世界です。


この世に生きている私達は、どうしても生活をしているので、社会的信頼、常識、道徳観、倫理観が優れていればいるほど、この世的なよりよい解決方法を考える知性があればあるほど、「相対基準」で物事を見やすい。

なので、宗教修行をするひとは、このあたりに、本当によく気をつける必要がでてきます。仏法というものは「仏ー自分」の一方向であるのにもかかわらず、生活習慣や社会習慣で癖づいた「相対基準」で仏法を無意識に見ていることが起きます。

常識的な方、社会的規範をよく知り遵守されている方ほど、その言っている意味がわからない、などという現象が起きます。悪たる原因をとりのぞくこと、が改善だと思うからです。ですが、それは「排除思想」に繋がっていき、理想に達するまでの「障害」をとりのぞく、という考え方にも通じていきます。

ひとは人生におけるライフイベントのなかに、「とてもしんどい」ときがあります。その「しんどさ」を排除しようとして、しんどい出来事を運んでくる身近なひとを遠ざけたり、縁を切ったりすることもできます。それは「自分のような未熟なものには無理だから」というしんどさ、からくるもの、でもあると思います。

そうした考え方自体が、実は「相対基準」ですよ、と言われれば、とてもよくあるものだ、と分かると思います。かばんや服のブランドだって、私達は、私達の趣向で「選んで」います。それは、悪いことですか?と問われば、そんなことあるわけないじゃんと思うように、悪の根源思想でもありません。自由というところには、選択という相対比較があるからです。

では、心の成長とはなんでしょうか?
絶対基準で仏に近づくとはどういうことでしょうか?


仏はさんさんと太陽のように仏子を愛しています。仏子とは、輪廻している魂のことです。生きている人間もいれば、幽霊もいます。天使や悪魔もいます。

私達は、仏が愛しているように、ひとを愛する、ということをやめることはできません。でも、「愛する」にはいろんな段階があります。憎しむひとを愛するために、自分の心を磨く必要さえ、あります。

この世にはいろんな出来事や、いろんな手立てがあるのですが、ひとにいたっては、いろんな立場があって、いろんな苦しみがあります。私達は同じ人生を歩んでいるひとはいないので、他人に対しては、「想像する」ことで理解することができます。

そのとき、自分のものの見方をもってきて理解しようとすると、理解できません。ひとの立場にたってものを見ようとすると、自分のものの見方を一度捨てなくては見れないのです。

先日、私の努力が泡になったとき、有識者に話を聞いて、いかに私の努力が妥当であったかをふりかえりました。私の現実的な努力は、ドジな部分はあったにせよ、おおよそ、おかしくはないと思われました。それなのに、私が配慮して行った行動に、厳しい指摘を受けました。その指摘がおかしいという根拠を聞きたかったのです。そして、私はおおよそ間違っていないことが立証されました。

(職場トラブル、学校トラブル、友人トラブル、離婚トラブルでもなんでもあてがって、考えれば、日常によくあることだと思います。)

でも、私の心の怒りは拭えないのです。私の努力や、周囲を考えた「心」が水の泡になったからです。それだけでなく、私が問題があるかのような、いやがらせに似た嫌な行動をとられました。

これに対して、現実的になにかをアクションをとるありがちな自分のパターンが、「自己防衛」をする偽我、が考える結果です。それをやめると、たいてい「怒り」と「恐怖」がでてくるものです。

そこで、私は相手の立場にたって「ものを見よう」としました。そのひとの人生、そのひとの考え方、そのひとのしたいこと、そのひとの恐れ、そのひとの力、いろんな要素を知った上で、そのひとの「思い」というものを知ろうとしました。

そうするとき、「私だったらこうはしない」目線で見れば、そのひとのすべてに、善悪を見るでしょう。でも、「理解する」ときには、その善悪の基準は必要ありません。それは、そのひと自身が考えるべきことですし、そのひと自身が精進するものですし、そのひと自身が欲しているか否か、です。つまり、余計なお世話でもありますし、慈悲魔と呼ばれるものでもあるし、相手を腐らせるもの、相手の尊厳を損なうもの、相手の主体性を奪わせるもの、相手を管理するもの、相手を支配するもの、の何者でもありません。

(もちろん、社会には必要な管理、はあると思います。が、心の管理は自己が行うものです。)


やっと、そこで私の心は解放され、相手を心から「好き」と思えるようになりました。こんな気持ちなんだろうな、と想像したのでした。


自分がされたことをとって、「好き」「嫌い」を決める必要がないなら、なんて楽な世界でしょうね。ひとは「学ぶいきもの」ですから、相手にされたことを責めなくても、自分のふるまいを研鑽すればいいだけなのに。

そうなってくると、相手の行動も自分の行動も、意味をもたずに、起きた出来事に四苦八苦しているという「事実」だけになります。仕方がないこともあれば、改善が必要なこともあります。その改善をするべきひとは誰なのかを考えるとき、それができないひとを責めても、そのひとは「できるようにはなりません」。できるようになりたいと思っていないひとに、「できるように指導する」こともできません。

いろんな手立てで生きている私達は、正解のない世界、にあると言ってもいいでしょう。その水準を守るために、法治国家、になっているわけですが、それでも、私達が「心から楽」になるには、理解してゆるす、上に成り立った、理解して生かす、ゆるして生かす、が必要ではないかなと私は思います。


私は偶然にも、相手もせめず、自分もせめず、「好きだなぁ」と思えるようになりましたが、そうではないパターンが、左と右に痛みや違和感をもたらします。


左・・・相対比較で、自分を責めるとき。劣等感。自分を正しく理解しない。
右・・・相対比較で、ひとを責めるとき。被害妄想。ひとを正しく理解しない。


絶対基準で精進している「仏ー自分」の世界にあるひとが、間違ったものをひとに与えようとするときは、表現を変えますね。

左・・・執着、五蓋、五毒があるとき。傷つきが深いとき。劣等感。
右・・・ひとから学ぼうとしないとき。ひとをさばくとき。被害妄想。


左と右は違う勉強をやっているようで、実はまったく同じです。(この世的な話ではないです)自分を責めるか、ひとを責めるか、の不毛な思考を張り巡らせているのです。残念ながら、一時的な解決はあるにせよ、本質的な問題解決能力にはいたらず、常に、同じような問題に直面し、何度も何度も、人間関係や社会のなかで、不毛な苦悩に陥ることでしょう。


真ん中、は、他力をお勉強しているときですね。他力の精進が問われているのに気づかないときには、ニキビができたりもします。眉間の真ん中、鼻の真ん中など。

他力の精進って、祈願をやればいいのかって話でもなくて、他力にまつわる心のお勉強のことをさします。

行為から引きつれて心に思えるものもあるとは思いますが、祈願しながら、なんで実現しないのか?なんて思っているうちは、他力修行が足りないのだと思います。

この世での実現にこだわって想いはりめぐらせているうちは、仏の威光が及ばないものですから。