らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

生霊

「生霊」とはオドロオドロしい怨念が作り出す、そんなイメージがあるのかもしれない。

まったく、そうではない。100日も丑三つ時にわら人形をうちつけなくても、生霊は飛ぶ。簡単に飛ぶ。

26日 8時45分 この後、頭頂部 左上を親指で押し付けられるような痛み
30日 早朝未明

たとえば、このブログを通して、私自身に向けて何かを思えば、簡単に私のところにとぶ。霊能者じゃなかろうが、唯物論者だろうが、誰彼構わず飛ばせる。むしろ、生霊の多くは「唯物論者」がほとんどである。

そして、心の反省をしているからって、宗教を勉強していたところで、自らの発する思いが神からみたらどうか、の観点で律してこなかったひとのそれも、相当ひどい。だから「聖黙」が必要であるし、正黙でなければ、自分の心の思いに、自分は気づかない。つまり、喋り続ける人は、話していた時間分、まず、黙る練習からしたほうがいい。

話すと楽になる、のは本当だ。そうやって、心に執着がある、からこそ、もやもやわいてくるものがあるのに、それを自分が抱えると「苦しみ」として生じる。心にある執着という毒注入器を外さない限りは、心から発する振動、思い、波動、というものは、執着がまじったえげつない毒、になる。その毒をうまい、と言って、飲み込みながら肯定するのが、「唯物論」である。

そうやって、毒は毒をつくる。毒にまつわって、ものの考え方を説いたものは、そうして、自分を愛するものから、自分の毒を通して、相手の心の毒注入器を創設するようになる。その毒注入器として、実は、毒をはいたのに神のように愛されたものが、潜在意識に己心の魔として君臨する。

そうやって、悪魔ができる。世界のうち、悪魔、と呼称できるものは、その潜在意識に組み込まれたパイプをとおして、「無意識領域」で人間の魂とつながる。そこに根っこがある限り、ひとは、そのまちがった「思想」を表現するように、人生を送る。その「人生」をコントロールしているようで、できていない。私達の人生は、私達の無意識領域に君臨する「思想」を表現しているに過ぎない。


今、私は、「成功のヒント 講義」の内容の一節、を受けて、今明らかにしてほしいと思いながらも、自分と他者を数年研究して出した仮説、を話している。ただ、己心の魔と潜在意識の魔、の区別がまだ、わからない。潜在意識もまた、己心の魔、の様相でもある気はする。でも、ユダ退治とかニーチェ退治とか話をするが、あれもまた、三段階くらいあって、その様相は、回数を重ねるごとに、「複眼」で物事を判定する必要があるのだった。だから、単体で表現してくる己心の魔ではないのだ。潜在意識の魔というものは。

私は、「自分に引き寄せられる現実世界の実相」と「潜在意識にいる魔は3つ、加害者、被害者、その世界の思想の根源」を見る。

私は家庭ユートピア、を誓願し取り組んでいるが、その家庭の実態をミクロの一例として、「加害者・被害者・思想の根源」で見るようにはしている。思想の根源は、父や母、または祖父母、であったりして、「指導してきた年長者」であることが多い。また、それらは「受け継いできたもの」でもあり、必ず、「祖霊」や「おなじみさん悪霊」とも繋がる。毛細血管からさらうような作業だ。

それは、「指導してきた年長者」の顔をしたものが、自分の潜在意識の底に、仏の光に照らされて、その思想の根源たる容態をさらしながら、私に迫るのだった。それは、恐怖であった。いいものがわるかったのだという驚きと、だからだったのかという納得と、今まで尽くしてきた苦しみと未来への絶望が入り混じって、言葉通り、ただ、深く息を吐き出すようにして、枯れた涙の代わりに、「あーあー」と耐えるしかない。慣れるまでに時間がかかった。

外に見ているだけならいい。外にいるひとが、「自分で考えて人生を生きる」ならそれでいい。自分には「関係ない」と思うのだから。実際、「関係ない」「迷惑でない」ところで息をひそめることはできる。

でも、そういうことが本当はどういうことなのか、「わかった」とき、私は絶望した。世界伝道が成功しなければ、自分の魂の底には、それが「存在」し続けるということがわかった。それが不幸を絶えず起こすことも知った。どんなひとにも。私達を内包する仏も、きっと、そうなのだと思う。仏の腹の底に地獄があって、その地獄にいる魂たちを大事にしている。でも、仏は、その場所に地獄があっても、影響されたりはしない。それが、「こちら」に順応、適応してくれるまで、待っている「強さ」が、仏にはあるのだ。

私達は、その強さをもたんがために、精進を重ねる。仏とともにあるように。傷ついたものや、傷つけたものと同化しないで。

未来と過去のはざまに生きる。


でも、私は、家庭に起きている事象にある哀しみをもったまま、ただ存在し続けなければなかった。そういうことがわかったときに、「仏」はそうできたとしても、「私」ができることがなんのかわからなかった。だから、経典どおりに、生きるしかなかったのだ。

間違いはない、はありえないにしても、まだ「自分なりの考え」を呈するよりかは、ずっと有益だと思ったからだ。後に、私は息子たちに何一つ財産を与えられない今をとって嘆いた。「法」だけは与えることができたかと思ったときに、涙したことがある。それさえあれば、生きていける。そう思ったときに、その財産がどれだけ尊いかを自分の人生で思い、ようやく、自分をゆるすことさえ、できた。私がたとえ一緒にいなくても、それさえあれば、彼らは希望をもって生きていける。この幸福は、知っているものにしかわからない。そして、その「希望」は、現実の「幸福」を顕現していく。

なぜ、そこに至ったか。どうして不幸というものが起きるのか、うまくいかないことがあるのか、その原因を究明していくうちに、あるとき、ふっとわかったのだった。仏の言うところがどんなに非情だと、どんなに冷たいかと、仏に反した私の考えに基づいた「やるだけやってみる」は、そもそもに不幸しか起きなかった。過去を振り返ってみても、私は「愛」というものが「愛」だと思っていないし、そもそも幸福を引き起こす「愛の形」がなんなのかわからないのではないか、と。

そうやって、祈願を受けた。わからないまま生きていてもひとを不幸にするだけなので、死んでもいいと思った。それがわからないのなら今すぐ死んでもいい。息子たちは幼かったが、幼くとも、そんな「不幸をまきちらかす私」が一緒にいるより、いい影響をあたえる誰かが一緒にいたほうがいい、と思った。

その答えは明確にわかったわけではなかった。ただ、毎日、反省作業として、過去の映像が、毎日毎日、数回強烈に見せられて、それに泣いて詫びるまで、続いたのだった。気が狂いそうだった。反省して泣いて、

何回も言うけど、体感の伴わない反省は、蓋がとれていない。だから、この泣く、という作業は、絶望して泣いている涙とは違う。(それは、夜寝る前に、祈りながら、泣く涙だ。)法雨が、数え切れないほど続いた。

法雨を流せば流すほど、家庭は荒れた。

私の無意識からなくなった「思想」で、家族は動いてる。私は「無意識からその思想を急激にどんどんなくしている」ので、家族は私の言っている意味や行動がまるでわからなくなった。私の存在が、家族を否定している、ように映った。

私をとりかこむ磁場に、私を中心に、革命が起きたのだった。それは、大乗に生きる人なら体験したことがあると思う。

急進的な革命児のような支部長にあたったとき、進化に向けて、厳しい改革を求められる。支部長を中心にして、周囲は磁化するように上に向かう「進化のとき」。一定の時期を過ぎて、「疲れ」をとるように、磁場を広げるようにして、穏やかな時間「調和のとき」が訪れる。

こうしたことが起きていたのかな、とはようやく今落ち着いてわかる。でも、当時は、そんなことも思えないし、まだ、あの衝撃を私は忘れない。衝撃的な時代はまだあるのだが、それは、「もう忘れるくらい」とおい過去、過ぎ去ったことだが、ここ10年のそれは、まだ記憶に新しい。

今は調和のとき。進化のときに、その支部長の役、をミクロでやっているとは、私の劣等感のためにまるで「自覚」していなかった。宗教のいうところの、自信、というものがわかっていなかった。この世で言うところの『自信」などではない。宗教のいうところの、「自分を信じる」と、この世で皆が使っている「自分を信じる」は、まるで違う。

例えば、宗教のいうところの「自分を信じる」は、「ひとをゆるしてあいする、プラス、自分をゆるしてあいする、プラス、神」が存在を確立させているエネルギーである。座標点そのもので、数式にはできない。これは、「できる」を目指していない。方向として、「できる」という動くエネルギーではない。方向がない。

方向があれば、「できる、できない」として、信じるために何をするのか?が問われてくる。自分の未来を信じて努力する、の「未来」におくイメージは人によって違う。また、そのイメージの分類さえでき、その分類自体で、その方の想念世界すら分類できる。そうなってくると、「自分を信じる」には、多くの要素、から見る必要が出てくるとわかる。

「達成」にこだわれば、その「達成」にまつわって執心するところの「なにか」で、感情は左右される。受験生のナーバスさはそこにあるので、ぜひ、年長者は「大きな心」を以って支えたい。でも、いつの間にか、自分がこどもが同じになってナーバスになり、一緒になって、「成功」したいと考える。
それが「親の愛」だと思いこんでいる。

そうしたストレスは理解できても、というかいつかそれに自分は同じように苦しむのだけど、たぶん、簡単に、すぐに「疲れてしまって」その苦しみをすぐに手離すことくらいは想像に易い。ゴリ子と一緒になって、これでは「世間のひとから変なひとだと思われる」から、気をつけなければならない、と心に誓った日、があるのだ。

無意識領域を見る、にまつわって、自由自在、ならいいが、その自由自在を得るまでは、自由自在をどうやって世界との適応に使ったらいいのかがわからなくて困ることばかりだったのだ。それは「執着」もあれば「仏性」でもあったので、どうやって「反省」したらいいのか、もわからない状態を、私達は通過している。

修行しているからって、目に映るすべてをとって、自分の目が正しいなどと思い込むことほど、愚かなことはない。

だからって、生霊のそれは、身体が痛くなる。その痛みを避けたくって、積極的な行動をとらなくなるのは、「当然」でもある。正当な学習結果、だ。例えば、悪霊がはがれきる前の、光が半分くらい入るときの「痛みは死ねる」ほど痛い。それをとって、耐えきらず、苦しいからと言って、仏の光が毒だとかん違うひともいる。

見分けは。

中から痛むときは、自分の心に問題がある。しっかり反省や祈願で光を充電することに専心すること。長期間かかっても、かならず続けること。
(理由は後述の日記へ)

外から痛むときは、そとから攻撃がある。そとに問題がある。自分の心や身体に滞留している光が足りないので、充電を増やす。

どちらも、簡単に言えば、光をあびるなどの同等の行為になるのにも、かかわらず、少し、違うのは、潜在意識のそれの仕組みで、今、どちらにあるか、裏と表のように、コインの裏表をやっているんだよ。

(BORDER 映画レヴューへ)


もし、頭が痛くなったときに、それを見分けつけたかったらね。痛む部位を特定して、その場所に手を当てたらいい。10分ほどしたときに、頭が痛みがやわらいで、手の甲がつっぱるなら、それは、「生霊」だよ。あちらが、念じているがために、その場所をめがけて傷まそうとしている。

なぜ、その場所かというと、その場所を司る執着だからだよ。ニーチェのあたりでその解説はするね。当たり前だけど、もちろん病気になる箇所で、執着がわかるんだ。だけど、頭は大事な場所でね、頭のどこが痛むかで、その考え方の特徴がわかるんだよ。


逆に。手をあてて、手の内側が重たくて、手の甲はなんともないのなら、あなたが傷ついた出来事を思い出して、その出来事で傷ついた頃の自分をどうか癒やしてほしい。起きているすべては、過去を変えたくても、「どうにかすることはできなかった」

むしろ、過去のあなたがそれを経験することで、今のあなたがわかることがたくさんあるんだよ。過去の不幸を呪うことは、その当時の自分を、今のあなたが呪うことと同じなんだ。だから、過去の不幸、出来事、罪をゆるすようにして、それを体験しながらも、「生き抜いてきた過去」の自分にありがとうと言うところなんだ。

あなたの未来の私は、今、こんなにも幸福だと。


過去の自分を癒せるのは、自分だけだということを知っておいてほしい。