霊能者であること
幸福の科学の信者さんは、わりと霊体質なひとが多いんだろうなって見ていて思う。
そういう世界が大好きなひとだけど、見えないひともいる。
みえることは特別なことかと言われたら、特別なことのように見えるのかもしれない。
私は、見える人ともたくさんお話してきたけど、見てる世界が違うと感じることがたくさんあった。
透視やマインドリーディングや、幽体離脱だとか、霊と話すことや、霊の翻訳をやったりとか
不得意得意はあるにせよ、私には遊びの範疇でしかなくて、遊び、程度のもので、むしろ、霊界の実在や、法のただしさの実証に、それが役立つことはあるが
見えるものに反応した判断というものは、常に失敗を引き起こしたように思う。
たとえば、悪霊や悪魔をつけて、悪魔の言った言葉を話すだけの人間を見て
忌み嫌うことをすれば、法に従っていない。
私達の修行とは何かといわれれば、
自分がいかに正義かを伝えるものでもなんでもなくて
愛されている存在であると他に伝えることが使命であると私は確信する。
ひとには自覚できない仏性や、仏に役立たせる使命の見つけ方は、より優れた眼を持てることはあるかもしれないが
それは、霊的なそれではなく
法を学んだ先にある善とは何かを知るところの、善を紡いだ何かを理解できるに違いないと私は思う。
ふと、友人のそれを指摘して、いわゆるユートピアの作り方がわからないままに、
友人がある仕事をすると宣言したときに
私が霊能者であることを噂で聞いた信者さんが、母に
らいらさんがあの方に言ったんでしょう?
やりなさいって。
と言ったそうだ。私はこうした霊能者の言うことに従って生きるんじゃないかというクエスチョンがたつ、霊能者信仰をまっとうするひとも、霊能者信仰が目に入るだけの人め大嫌いである。
もし、霊能者がそこにいて、指摘されることがあったとしても、それをどう判断するかは、自己責任だと思う。
そして、その指摘されるところの根拠が、法にのっとったものかの判断もまた、自己責任にあると思う。
私にとって、霊能力から知るところと、話を聞いていて知るところは、まったく同じものであり
むしろ、話を聞いて、根拠をとってからしか、霊能力で知りえたことを確信しないので、容易に話すことはしない。
遊びなら別。
そういう私が、根拠もなく話す時は、そこに成功法則があると分かるものである。
だから
お願いだから
霊能力比べみたいに、ちょっと見えるような話を広げるのは、やめてほしい。
実際、霊能力者が、どんな修行になるのか、よくわかった上で、霊能力者をかたる方がいいと私は思うんだ。
裏方も裏方、決して表に出るようなことは私はしたくないし、知らないのに、そうやって話をされるのもやめていただきたいと私は思う。
ただ、自分は知らない世界だけど、縁起を知りたい、法を全うしたいなら
善も悪も果を指摘されたい
ゴールを気づかせて欲しい
なら
私を使って参考にするというなら
私は喜んで自分をさしだす
そんなことを思うた夜でした。