らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

大人になれないということ

昔、まだ霊能力のコントロールとか知識が安定してなくて、どういうふうに視たら何が視えるかが分からなかった頃、よく、その人自身の心の実態のイメージを視てた。

 

妹の心を視たときは、切り株に生えているジメジメしたきのこだったり、また板の上に乗った、腐った魚群で動く生態の魚だったり。

 

たぶん、心理学で投影法を学んだこともあって、そういう思考遊びを繰り返して、開拓したのだと思う。

 

開拓済みなのか、心の点検によるそれかは分からないが、イメージで実態を解明する手法が、私というバイアスを通した偏ったもの、にはなっていなかったように今でも思える。

 

さて、切り株に生えたきのこは何を表すかというと寄生。腐った魚は、群れの中でしか生きられない思考を持たないものが、群れから出たときにどうしたらいいかわからず、鬱蒼とする様。

 

どちらも似たようなものだ。

 

妹は、よくよく成長し、ようやくそれを脱した気もする。社会的に見ても、人格や判断、考え方としても、じゅうぶんなほどに、変貌を遂げたと思う。

 

辞職する予定なので、労働者の同僚や上司らのために、労働環境を改善するために意見を提出したいとのことで、何か意見はないかと話を聞かれたそうな。

 

妹はその話を聞いて、残念だなって思ったそうな。

 

以前に職場の研修で、労働環境を整えるために四苦八苦して頑張られた方が成功した話を動画で見た。TEDでも取り上げられた。

 

そのTED の英語プレゼンを見て、私が一番最初に思ったのが、「この人は幸福の科学の信者だろうか」であった。ポイントが、幸福の科学の教えで構成されていたからだった。

 

逆かもしれないが、見る人が見れば、その主張がすべて仏法だと分かるはずだ。

 

私達信者は、幸福の科学の映画から仏法を学ぶ。あれは、エンタメ映画ではないので、教えをどれだけピックアップできるかが、自分の智慧の確認になるし、気持ちが乗れるかに自分の点検が入る。

 

そのためのもの、なのだ。

 

その方の動画はまるで、その映画を見ているようだった。

 

そのTED動画を私のグループチャットで紹介したことをとって、比較研究をして、この要素が足りない、この動機がこうだ、道のりにはこれでつまづく、と話した。

 

妹の友人が言うよウニ改善するにはどうしたらいいかを妹に聞いたら、またしっかりとした返答がかえってきた。

 

「青年部で息子を頼む」と話題を変えて、その話を終了した。

 

きのこや腐った魚から見事な変貌を遂げた。

 

 

見ていたイメージに、少女や少年(5歳児)だった方が何人かいらっしゃる。少年を視たときに、悪魔を感じたので、私はその少年自体が悪魔だと思った。なので、一生懸命に救済に努めたものだ。

 

だけど、今なら分かる。あのとき、感じた悪魔ルシフェルは、私に来ていたものだ。ルシフェルは人間に仕えることを嫌がり、神に叛旗を翻した。その意味が、ようやく分かる。

 

自分の潜在意識にタッチできる子が、夢で、殺人鬼と少女の夢を見た。長らく、それがどういうことかわからなかった。その夢自体、何年にも前に遡る。

 

殺人鬼が少女をいじめてくるので、少女がまわりに支援をされながらも、なんとか、殺人鬼に勝つ、という夢だった。まわりは、当たり障りのないことばかりで、何もしてくれないが、少女の気持ちを支援していた、だったと思う。(確認しないと詳細はわからない。)

 

勝った場面が特徴的で、勝った少女は殺人鬼に勝った時点で殺人鬼になり、殺人鬼は少女に変貌した。

 

少女は殺人鬼になり、殺人鬼は少女となり、また、ループした世界になる。

 

まるで、仏法が言う執着の話ではないか。囚われとは、そういうことである。悟り無くしては、やった、やられたの現実を生きるしかない。だから、我々は、囚われに気づき成長することを目指し、精進している。

 

それが現実に現象化していることを認められても、悟り得て、悟りを実践してできるようになるまでリテイクが現実に起きる。

 

知識を持つことを聞慧、どういうことかのケース研究を思慧、智慧を得て実践してできるようになるまでを修慧と呼ぶ。

 

「殺人鬼と少女は同じもので、殺人鬼はただ、打ち負かしたもの、少女は打ち負かされたもの。

 

少女は殺人鬼に自分の姿を見ているとは思っていない。

 

殺人鬼は少女から見て、自分が殺人鬼になってるとは思っていない。

 

外から見たら、どちらも、見た目は大人なのに、心や振る舞いが幼いこどもで、砂場での遊びを、社会で広げているだけ。

 

未熟なものが未熟なもの同士で、お互いの未熟さを理解しないで、相手が自分より優位にあると思いこんで、自分を傷つけてくると信じている状態。

 

だから、勝てば自ずと殺人鬼になり、負ければ少女となる。」

 

ある子とある子に同じ質のことが起き、私にもおそらく起きていただろうと思う。

 

これは、大人になりきれない人の心であり、宗教でいうところの、純粋さや純朴さではない。正当とは言えない要求を、自分が不遇だとして社会に訴える心の実相である。

 

それを見抜いて育てることができなかった私に、ルシフェルのエネルギーが被ってくるのは、当然の由である。