疲れちゃった
今日は、とりあえずの退職の日。明日は、新しい仕事がはじまる日。
半年間だけだったけど、お土産をたくさんいただいて、恐縮するばかり。
4月に、何を学ぶのかなと思って、愛を学ぶのだと思っていたけど、とんでもない。
愛って、いろんな含みがあって、人を愛おしく思うばかりに、間違った行動をしてしまい、気づかずに苦しんでいる人もいるのだけど、そういう、人を愛おしく思うこと、ではなかった。
どちらかと言うと、状況を判断して、自分をどう生かすか、という意味で、自分をどう伸ばしていったらいいか、という命題だったような気がする。
でも、その基礎、基盤には、愛おしく思うというよりも、その人を、感情をはさまないで、冷静に理解することと、その上で、自分の精進をなんとするかを強く自分に強いるような感じがあった。
土台、自分の劣等感が強く、責任ある場所で、どれを自分の責任範囲ぶんとするか、も問われていた気がした。
どこまで、というよりかは、組織全体の利益に自分が関与していることを、明確に具体的に自覚する必要があった。
そのなかに、比較論がついてまわるのだが、その比較は、単なる「表現」でしかないこと、表現の奥にある、その人が伝えたいことを汲み取る必要があった。
その汲み取る必要があるのに、上っ面な表現を、そのまま受けとってしまうことの難しさを知った。
隣のおねいさんが、私をおもしろい人だと表現したが、その中身は、裏表がない人、だと教えてくれた。途中から、私が裏表のない人間だと気づいて、楽しくなってきた、とお話された。
隣のおねいさんは、もともとは裏表がないけど、調和として合わせることが大変らしい。私は、わからんちんなので、やはり、裏表がないやり方でしか生きていけないので、仕方ないので、裏表がなくても生きていくチカラをつけようと思った。
いろんな人からあたたかい言葉をもらった。
私はというと、適性があまりあっておらず、もう、四苦八苦して、迷惑ばかりかけて、申し訳ないかぎりなのだが、そんなことおかまいなしに、優しい言葉をもらったとき、ちょっと変な気持ちになった。
ひとを信じる、と、自分を信じる、をやっていたのだと思うが
この、信じるは、もちろん、心的なもので、現実的には、努力をするが問われる。
適性が合わずに四苦八苦しているとき、心的なものが、その現実に強く影響して、疑心暗鬼になった。言葉どおり、よくもわるくも、現実を、マイナスの方にとらえることが多く、自分の不安の高さを思った。
でも、不安が高い状況だと、いろんなことに気を配るので、仕事能力としては、慎重な仕事ができる。気を抜くとミスが増えるというような、わりと緊張が高い職種なのもあって、その中で、自分の生かし方がわからなかった。
理不尽だと思うこともたくさんあった。
でも、理不尽なことは、たいていよく起きるので、私にとっては理不尽なことでも、私がそのなかで、どうしたら、理不尽に感じないかを考えた。グループダイナミックスをよく見つめて、自分の行動の責任を、自分にしっかりとることだと思ったときには、いろんな迷惑なことを起こした後だった。
糧にするしかないと教えていただいたとおり、その迷惑なことが起きるまで、私は、気をつけなければならないことの本質が見えていなかった。
自分が、というよりも、仕事として何を気をつけなければならないか、は、先輩方がよくご存知であるにもかかわらず、その対処法、つまり、先輩方それぞれが編み出した、自分にとって適切な責任の取り方としての方法、を、自分には理解ができないと右往左往していた。
もっと、理解するように話を聞くべきではあったが、仕事とは別の話を先に大量に聞かされて、辟易してしまっていた。それも、私の関心をどこにもっていたか、が左右していたのだろう。
神経質になりやすいので、くだらない雑談にバランスを置いていたのがあだをなした。
役に立つことをする、に徹すればよかった。
霊的には、もちろん、ぐーっと圧がかかっていて、処し方にも困っていた。同じ土俵でたたかっていたのは、自分への劣等感だっただろうと思う。さばく、とは、自身の劣等感から起きているとは思わなかった。
振り返ると、そうだとしか思えない。
劣等感がもしなければ、さばく視点にすら、ならないこともわかった。
私が迷惑なことをして、自分の小ささを受け入れたとき、人の言葉を気にすることをやめた。仕方ないことだからだ。周りだって気を使う。対処もしなければならないから、話題に出さないわけにはいかない。
ただ、たんたんと役に立つようにやろうと過ごしていた。疑心暗鬼になったときに起きたことと、同じことがいくつか起きた。
それの結論の見え方が変わった。
あの人が怒っていたのは、この人がこういう行動をしたから、イライラしたのだということ。
私が不注意だったからであって、意図されたいじわるではなかったこと。
覚えることが細かくて多すぎたこと。
(正直言って、仕事の負担は、かなり性急過ぎたと思う)
あの若手は、私を好きだったこと。
いろいろ。
職場で、蛇が頭の付近でザラザラとうごめく感覚がよくあって、職場にいるもの、だと思っていた。職場でしか体感がなかったから。
でも、秘密の法の霊障者の立ち直り方のCDを聞いて、思い出した。あのザラザラを家でも体感した時期があったこと。あれは、ひとを殺せる級のアナコンダで、とても怖い思いをした。
ふと、あの頃の自分を思い出して、あっと思った。
猜疑心。
あの頃の家庭は、とてもじゃないが実態がいいとは言えなかった。霊障で、記憶がとぶ人がほとんどで、記憶がとぶ出来事もたくさんあった。私は気が気でなかった頃だ。どうやって守ればいいのかと。
逆を言えば、霊的に言えば決してよくない状況で、私はこうなりやすい。でも、環境、とは、いろんな要素で出来ているので、その環境を作る人、のせいでもない。
でも、その、決して霊的に言えば、決してよいとは言えない状況を、どうアプローチして、よい状況にしたらいいか、は、いろんな手立てはあるが、宗教でのアプローチを使わないでどうやってやるかというと、武器は自分しかなくなる。
音楽の体感研修で、クソみそに泣いたのはこれだった。怖くて仕方ないのだと泣いた。でもパングルは、頑張るって自分にマインドセットする。私だってそうマインドセットしたのは何回もある。腹の底で怖がってもやるしかないからやってきた。
けど、どこから来るかわからないけど、本当に怖いんだ。
その武器である自分、の何が武器になるのか、が分からなかったのだけど。
ようやくわかったような気がする。
家族は伝道すればよかった。激しかった笑。
宗教が仕事でない以上、仕事に現実的に宗教色を持ってくるのは、具体化された目標しか見ていない人にとっては迷惑甚だしい。
だから、私は、私自身の精進だけを見て、コミュニケートが重要ではなく、どうやって役に立つか、だけを考えればよくて、そうするうちに、コミュニケートがうまくいくのだと。ゆっくり広がる。
コミュニケートだけでうまく誤魔化す、みたいな、部分を見た。はっきりとした、未来を見据えられたもの、ではなく、うまくやり過ごしていくにも通じるきつねのような。
そういうガチな修行でございました。これから大変だろうなあ。
明日は、新入社員として、偉い人にご挨拶を賜るので、緊張している。怖いなあ笑。
でも、最初から、実は、勝っているのにね。
何をもって勝つのか、それは、ずっと映画で教えてくれているのに、わからない人もいる。
同じ土俵にたたず、何をされても、愛し続けること。