知るということ
知るということ、は、尽きないなあと思う。
宗教をやっていて本当によかったと思うことは、たくさんある。
宗教的観点を知って人生を豊かにする、だとか、宗教的知識を得て世界の見方が変わったとか、そういうものじゃなくて。
自分の心を振り返って、神様にごめんなさいと感謝をすると、ひとに対して、とっさのレベルで、自分を守ろうとしなくなって
素直にごめんなさいと感謝ができるのは、トラブルが起きても、日常でトラブルがうまく流れていくなあと思う。
その日常レベルで、こだわり抜いた信念をひとに突き出すのは、なんだか違うと思う。信念は、自分はこうありたいって言う絶対基準だと思う。ひとに迷惑かけて突き通す必要はない。
じゃあ、宗教は人に迷惑だと思われるから隠しておこう、とか、そういうのは違うと思う。
迷惑だと思うのは、宗教はなんなのか、を知らないからであって、知れば、なるほどと思うものだと私は確信する。
でも、私だって、宗教修行をしているとき、知らなかった方が良かった、だなんて、知らない自分を捨てられなくて、そう思うこともたくさんあったから、知りたくない人の気持ちも分かるなあ。
でも、宗教修行って、自分の心の甘さを鍛えるものだと思うんだよ。
心の甘さって、現実の実態や理想に対して、妄想をあてがうもので。
現実の実態、を受け入れたくないから、知ったふうになることが多かっただけなんだと思うとともに、
その可能性を考えもしなかったことを、
実態はそうだった
だから、こうしたアプローチが必要だった
を、宗教修行を経て、つまり、甘さを廃してから、数年かけて、ようやく知ることができる。
私の場合、よく考えてみたら、家族に始まり、家族に終わるって言うかんじで
大学も家族療法系の分野であったし、家族伝播の実際を、主たる研究分野にした。
なんでこうなるのか。
今、その具体的な実際として、問題にあらわれる要素、を知る機会に恵まれている。
貧困さにも繋がる話。
ああ、そういうことだったのか。
ああ、こういうことだったのか。
身に染みてわかること、は、何が弱者で、何が強者で、何が必要だったかに、無理な期待を他者にかけていたという理解だった。
自分が愛する者の、または、絶対的な存在に対して、(親や上司だとか、社会だとか、いろいろ)、間違った見方をしてきて
よく知る人で素晴らしいと思って頼ってきた人が、実は弱者であったとか、これがわかるのが一番きつい。
わかれば、こちらが助ける側になるってことが真実だから。
力がないって嘆いていた劣等感どころではないとわかってくると、自分にできるか、という恐怖が襲ってきたりする。
だって、目の前にあること、は、自分、にしかできないことなんだと分かるから
だだをこねている場合ではないのだった。
現実的に力をつけられるか、という命題に対して、うまく戦えない自分にもがいてみるけど
まあ、なんとかなるもの、というか
神様の手のひらで転がされてることも
あんまりにも見事過ぎるものだから
…まな板の鯉、になるよね笑