3年前
3年前に、お話が書きたいんです、って礼拝室でおいのりしたことがある。
書けばいいのに、なんでか書けなくってねぇ。
昔は、思いつくままに書いてて、話の骨子すらふんわりしてて。詩みたいにしか、シーンを描けなかったんですよ。
そう、はじまりは、私は、詩を作ること、だったんですよ。
心の波打ち際に、ひたひたと脳味噌をひたすと、言葉が韻をふんであらわれることもあったし、
情景があらわれるから、それを言葉にすることもあって、
そういう世界を愉しんでいたんですよ。愉悦ね。楽しいじゃない、愉しい。
言葉っておもしろいもので、私は、感情に即して、自分で言葉を作って愉しむものだから、たまに、笑われることもありますよ。
それから、それじゃあダメでしょって人に言われてから、なんだかたのしめなくなってねえ。プロットのお勉強したんですよ。
そのあと、あとは書き出したらいいのに、どうやって書いたらいいか忘れてしまって、昔、どんなふうに描いてたっけ、って思い出せなくてねえ。感覚だからね。
論文調だったり、口語体だったり、いろいろ、その界隈で汎用される言葉も違ってくるし。
でもねえ、なんか書けなかったんですよ。
自分の言いたいこと、心の波長が塊になってるときは、書き出しから終わりまで、自然に読ませるように書けるんだけどね、でも、それは短い場合、一気に行ける。ショートショートとかね。
どうしても、長いお話になると、まだ、無意識手続きになってないからか、なんかパチンとはまらないで、身体のなかに、完成したエネルギー体にはならないんですよね。
必要な情報、より、何を主張したいかとか、その根拠が、一幕、二幕、三幕でおりなせなかったんですよ。
まるで、それは、部分と部分が互いにぶつかりあって、全体が見えない位置にあるようなもので、全体から部分にアプローチできない、そんな状態。
全体から部分を見れば、その部分の縁起に基づいて、根拠だった流れ、が、見えてくるんだけど、イマイチ、見えなかったの。
ただ、お話を書く人生をくださいっておいのりしたんだけど、さ、その夜、神様がいらして、とんでもない夢を見たの。
瞑想するでしょ?
太陽を目をつぶって見ると、瞼の裏で、中央から、オレンジとか赤の粒子が流れてくる感じが見れると思うんだけど、(やってみてね)
こんやはうまくいくなあって、豆電球なのに、金色の瞼の裏を見てたのね。
そしたら、もっとチラチラキラキラしたはぜるような線が、もやんもやんって見えてきて、
あっ、神様じゃんって
全体像が見えたら嬉しいなあって、無を調整してたの。
無じゃないと見れないのよ。見たいって思うと離れてくの。見えなくなる。
だから、無、になるよう、はやる心をおさえてみたら、
たぶん、はじめて、肉眼で、瞼の裏で神様を見たの。
なんでか知らないけど、やっぱり、神様って、昔からある観音像だとか、インド神だとか、あーゆうので見えるんだけど
そのとき見たのは、腕が何本もある女の神様でね、
完全に見えて、これは友達に話さなきゃと思ったんだわね。
ちょっと興奮したのか、全然眠くなくて、しばらく、そのビックリマンシールみたいな神様と向き合ってたんだわね。
なんにも話さないし。
(そりゃそうだ)
仕方ないから寝ようと思ったら、ヒュンヒュンって、その神様の中央から、6つの光が、喉かなあ、そこから、私の中に入ってきたんだわね。
順番に、ひとつ、ふたつ。
入ったら、神様は見えなくなって、これはどうしたらいいんかなって困ったんだけど、とりあえず寝ることにしたの。
そしたらね、動画を見たんだわ。
まだ脚本をお勉強したばかりでよくわかってない私が、脚本術を駆使してあったそれを動画で見たんですよ。アニメの世界だったんだけどさ。
びっくりして、これは書かねばと何回もやろうとしたんだけど、やっぱり書けないのよ。オチまでは見せてくれなかった。
三年、じーっと、Amazonプライムでいろんな映画を見ながら、心の反省だとか、テーマを考えたりしたんだけど
(ロマンス映画がしっかり、社会問題に批判的なテーマを持って取り組むのをよく見た。びっくりだ)
やっぱり、わからなかったのが
帰宅最中に、今、唐突に見えた。
オチが見えた。
神様が見せてくれたのは、一幕だった。
私はずっと、全部だと思ってた。でも、一幕だけだったんだ。
最初は、内なる敵ってなんだろなとか考えてただけだったんだけどさ。
まあ、ジョジョを久しぶりに昨日読んだからかな笑
…よくわからんけど、なんでか、わかった。
なんでやろ。三年という、先行作品の調査研究の賜物だろうか。
でも、その三年って、私が狐をターゲティングした期間でもあったんだよねえ。
比較優位のものの見方を内から撤廃してきたんだけど、なかなか、真ん中を得るのが難しかった。
ブランド品を嫌厭してみたり、または、高級嗜好に投じてみたり。見た目も。能力も。この世的に、自分が引っかかってくる何かを、一度全部否定して、また肯定して、ってやって、また、元に戻るみたいな。
まあ、自分にちょうどいい判断ってあるよね。
見た目だって、なんのために、ってあると思うのよ。ちょうどいい具合に、とらわれないで、それでいて洗練されてくるって、できてるかわからないけど、いいモデルは周りにたくさんいたから良かった。
私の職場の人、みんなお上品で、奉仕の心にあふれてるし、ね。
私は田舎おばさんなのに笑
環境に自分が慣れるように、高めるもアリだと思うな。少なくとも、私はそうだった。環境に選ばれる自分になるよう頑張って、環境に慣れるようにしてく、の繰り返しかな。
今、私は、ちょうどいい、職場にいる。幸せだ。