らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

さてさて

時系列にお話をしたらいいかな。精進というものは、実はひとつの方向で進むわけではない。まるで螺旋階段を登るかのように、右巻の渦を中心にむかっていくようではある。と、同時に、潜在意識では、左向きの螺旋階段を下るかのように、下へ下へと、ゴキブリがはいずりまわっている世界を光で照らすがごとく、ゆっくりと信仰の光を浸していく。

(螺旋階段を見たわけではないが、天上界の光を見るときは、うっすら時計回りの光の渦が見える。かえって、潜在意識は時間を逆行させているのか、左向きのような感じがする。視覚化したのは、右巻きの渦だけだ。)

と、同時に、光が放射していけば、間違い、という不幸の原因、つまり、縁起が分かるようになっていく。それは、魔を祓う作業でもあるが、実は、生きている人間の考え方が変わるという作業でもある。もちろん、自分だけが変わるというものではない。

感化力と呼ばれるもので、ひとに焦点をあてているわけでもないのに、自身の影響力だけで、周囲を時間をかけて根本的なところから変革させてしまう。だから、家族の魔も祓うことになるし、家族の考え方も変えていかざるを得ない。

(このあたりは、伝道にまつわるお話になる。今までに書いてきた。自分の信仰のパイプ=無我、ひととの信頼関係のパイプ=無私、のところが貫通すると、自分を通して、光がひとに流れるため、引き起こされる。)

その過程で必ずでくわすのが、祖霊とおなじみさんだ。

そう、ブラックナイト出現の後、ある記事を読み、ようやく、祖霊なのか、おなじみさんなのか、縁を探してもどうもはっきりしなかったものが、明らかになった。

アパートから実家に戻ってから、霊的な私は、体中に毒をいれられるような痛みに苦しみ倒れたと言った。それはあまりあるほどの邪気で、ホラースポットに行ったことはないが、戦争記念館よりもずっと怖い所ではあった。小悪魔はそこら中にいたと思う。地獄霊は隠れていて見えなかったが、それなりにいたと思う。でも、いちいち、存在を識別するほどの余裕は私にはなかった。

とにもかくにも、光を流し入れる、磁場を入れることに傾倒した。ご本尊は各部屋にいれ、ひとへやずつ、結界を貼り直した。貼り直しても、悪魔、というものは神を知っている霊魂であるので、神がそこにおわそうが、苦味をつぶした顔をして、居座っている。家族全員がある一定の智慧ある信仰をもたなければ、その智慧をもたない限りは平然として、肉をかぶる。

魂を霊視すると、その光の渦の球は、アスファルトのようななにかこってりとした粒や、石ころみたいなのを付帯していることがある。魂の真ん中から、こってりと繋がっているように見えるものもあれば、外側にべったり、ということもある。

霊体を霊視すると、その魂のこってりとある部分につながるだろう肉体の箇所が、弱っているように見える。黒く見えることもあれば、変形していることもある。想いを肉体に可視化しているものを除く。阿羅漢の容態とかではなく、下半身が蛇になるとか、そういった類で見えることもある。

幽体を霊視すると、また、その繋がっているだろう箇所が、黒く見えたりする。病巣の卵だったり、病巣そのものだったりする。

で、悪魔の最終的な居場所は、脳である。

肉体のチャクラの表をさがせば、どこにでもあるだろうが、私はそのあたりは詳しくないので、細かい精査は行っていない。ユングがインドのチャクラ思想に傾倒した時期もあったので、研究しようとしたが、あまりにも資料が専門性をもたないものしか集まらなかったので、やめた。ただ、第7チャクラから第1チャクラまで、対応した反省があり、また、第1チャクラから第7チャクラまで対応した反省があるのは、5年前に調査してわかった。

ちなみに、私はユングフロイトには興味がなかったので、専門ではない。大変だったのがおわかりだろうか。私が研究したのは、家族心理学である。

被検体も手を挙げるひとがたくさんいたが、ちょっと、現実離れした生活になりがちだったので、申し訳なくて中断したということもある。そう、一日の出来事への想いの揺れの反省が連日続くのは、日常や精神を破壊しかねなかった。(それどころじゃない、という理由もあった。)でも、私に関して言えば、必ず、左側面を回転するかのように、第7からさがっていき、右側面を第1からのぼっていくように第7にあがっていった。自分への評価を修正したら、人への評価も修正するかのように、最終的には「理解」があった。それをもしかしたら、智慧と呼ぶのかも知れない。

この頃、連日起こる出来事から、さきほど申し上げた、感化力による魔を祓う現象が続いたため、シンプルな構図をアイデアとして図式化した。そうだと言わざるをえないほどのデータが蓄積したためだった。一旦図式化してしまうと、ショートカットで行きたい私は、根本的な魔を祓うに執心するようになった。

それに必要なのは、悪魔本から間違いの根本原因を探し見つけることと、それに勝る智慧をしっかりと対応させて理解し、現実の、自分の日常展開する出来事のなかで、それと同通する箇所を探すことだった。そうしていくと、驚くほど早くなった。焦点は、自分の過去から潜在意識の容態を割り出し、自分の過去と過去世と宇宙世と、潜在意識を貫通した「祓い」が必要になった。その輪郭をはっきりと見抜くには、何年もかかる。ひとつのことに、何年もかかる。反省は一度切りではない。根幹をはっきりと浮かび上がらせるには、外堀からしっかりと修正をかけていきながら、中枢に何が鎮座しているのかを、見定めなければならない。

つまり、反省と修正に次ぐ、反省と修正の先の向こう先、つまり、怒涛の修慧である。私の場合、特性が「論理的思考」なので、教学に基づいた過去の調査を重ね続ける「内観」がものを言った。しかも、心理学の論文にあるある一定の知識は、それを補完した。でも、もちろん、私の個性ではやりきれない。私には妹が二人いるが、そのうちの一人はかなりいい働きをしている。また、そうした善の回転のなかで、感化されていった家族たちは、それなりに、自分の精進を深めていったので、また家族の内側にある全体を支配する思想を明らかにしていった。

とにかく、全部やったのだった。

あるとき、前○○部長さんが私に言った言葉がある。あまりある書籍の量と活動域の範囲の広さに辟易して、こんなにもやりきれない、と言った私にかけた言葉。

「全部、やるのよ」

聞いたときは、衝撃だった。現実的なところを考えれば、無理なことだろ、としか思えなかった。当時のわたしが今の私を見たら、とんでもない驚愕と、やはり「なんで私が」「何それ?」という反抗と戸惑いと怒りがあったことだろう。

薄っぺらいなりに、全部、やった。


で、最終的な魔の居場所は、脳にある、こともわかった。その後、あるひとから勧められて読んだ本がこれだ。
胸が踊った。ありてあまるほど、裏付ける内容であったし、調査研究のパートナーがいた私にとっては、彼がしたところの、悪魔への詰問、も浅い所で経験したのだった。

脳、にあるだけあって、現象化して分かるのは、その人間が信ずるところの「信念」と偽って呼んでいるところの「考え方」なのだった。

信念とは、信じるところのものだが、この偽る「信念」は、成功法則だと思っているはずの執着、にしか過ぎない。それは妄想であって、この世の中の誰にでも通用する理ではない。

大手企業に勤めることや、社会的地位に満足すること、それでひとが自分を高評価してくれると信じている人はおられると思う。でも、実際のところ、そこで学ぶことは大いにあると思われるが、そうではない四苦八苦する人生を歩んだ人を考えてみると、能力の可否でそれが決まるとは思えないのだった。

先日の研修の発表者はまさにそれで、安定した企業を、志のために辞めて、志を全うするために生きていた。それはとても、頭のいいひとからすれば、愚かなことだと思われるような選択だ。が、その過程で四苦八苦して鍛え上げられた智慧、は、安定したところで生きていて得られるものではない。

(苦労をしなされ、という意味ではない。要らぬ苦労は不幸であり、無駄である。)

その安定したところから編み出された偽の「成功」は、智慧でもなんでもない。何も知らないでいるための「秘策」とすら、言えるかもしれない。でも、そのほうが幸せかもしれない。私は、こういう人生だったのでこうでした、としか言えないので、自分はひとから見たら偽の「成功」かもしれないし、そうでもないかもしれない。だけど、潜在意識のクリーニング、そのものには、類まれなる情熱は在るのは自負する。

で、その潜在意識のクリーニングは魔を祓うことでもあるのだった。魂だけでなく、霊体、幽体、肉体とすべて繋がっているのであれば、魂で信仰を選んだとして、霊体レベルでも光は貫通し、幽体をきれいにし、肉体をもキレイにする。

幽体が弱っていれば病になるが、そこもきれいになったときには、脳みそもきれいになって、考え方が抜本的に変革しなければ、嘘なのだ。考え方が魂を貫通して変わるのであれば、無意識に「その考え方が当たり前」のようにふるまうことができなければ「嘘」なのだ。

だから、考え方から入るひともいるし、信仰から入るひともいる。努力は一日にしてならず、何年もかかる。

その過程に必ず、祖霊やおなじみさんを救済していくのはたしかなことである。なぜならば、受け継がれた「考え方」によって、不成仏になっている祖霊はたくさんいる。天国と地獄があると、あの世を信じるだけではだめで、地獄に通じてしまう苦しみ、つまり、傷つけられた心の苦しみを癒やし、ゆるすこと、幸福な自分を思えるようにならなければ、「天国」には行かない。

私の祖霊は、犯罪を犯すようなひとはいなかったし、酒癖は悪かったが、浮気がひどかったなどとは聞いたことがない。それなりに家族や地域に愛されたのにもかかわらず、私が知るところの祖霊は、つまり、霊視ができるようになってから亡くなった親戚筋は、あまさず、地獄に堕ちている。愛する祖父などは、夢で天国まで導いた記憶が残っている。

それは針山地獄なんだろうな。まぁつまり、地獄にいたので、私が背負って、天国らしき世界までおぶっていったという夢だった。天国らしき島は、海の向こうにあり、島に続く道は、針でできていた。大きな針の上に、足をぶっさして、次の針の上にまた足をぶっさして、歩くという道だった。天国らしき島だけを見て行くぞ、という気持ちになれば浮く、足元だいじょうぶかな、と下を見れば沈むといったように、思いの世界である。あまりにもリアルで、私は祖父を天国に導けたと確信するほどだった。

(ひとつの小説にできる話でもある。その地獄界がどうなっているか、詳細に描ける。そして、その地獄界にいたひとたちは、この世ではありふれたひとたちである。信仰があるからとか、神を信じているから大丈夫、とは言えない。それは救われる縁でしかなく、反省と正しい心がわからなければ、その天国への道を歩けぬように、わからないものは、村を脱することも考えないし、天国まで歩いて行けない。)

祖父がなぜ、この地獄界に落ちたかというと、その歴史を知らなければ到底理解することはできない。なので、こうした成仏にかかわることをするときは、「なぜ堕ちたか」を知る必要があるし、「どうしたらいいのか」の結論を私自身が修慧として、ある一定の量、重ねなければ、あげることはできない。

祖父は、若い頃、出稼ぎに行き、よく知らぬ土地で、よく騙され、ひどい目にあっている。

その後、地元に帰ってきた祖父は、親戚筋のために尽くして生きた。水戸黄門が大好きで、つまるところ、それを理想として生きたようにも見えた。わりと喧嘩をする家族でもあったので、修羅地獄かとも思いきや、そんなこともなかった。祖父の心に遺したそれは、「ひとは自己中心的で騙すことも平気でやることがある」という傷だった。でも、それに怯えて生きていたようには見えない。ただ、それが心の傷として残った。

ある親戚筋は、戦争下の頃、徴兵にはならなかったが、炭鉱だとかああした場所で、働いた。今では考えられないほどの劣悪な環境で、殴る蹴るの指導もあった。戦争系の映画を見れば想像に易いだろう。その親戚筋は、頑張って働いて働いて、地元でもはえあるお金持ちになって、豊かに生きたのだが、彼に残されたのは、「殴る蹴るの暴力を理不尽に受ける」世界だった。

(ちなみに、彼の経済的豊かさは、私の家系とは関係ないところにある。)


まぁ、そうしたことで、幼き頃、若き頃に、どうしても恐怖した体験が心に残っているのならば、そうそうにいまのうちに取り組んだほうがいいことを添える。信仰の一条の光で、あの世で天使が迎えに来ようとも、天使を信じられなければ、自ら手をふりほどくことになる。あの世でどっぷり、その思想に浸かりすぎると、天使を鬼と見間違えることすらある。

(その話の説明も、また小説になるほどの充実したストーリーだ。)


で、祖霊は不成仏だったり、地獄におわすると、そういうことで、魔を祓い、こちらが智慧を得れば、おのずと、縁をもっているので、私の場合、必ず、接触がある。そう、私が霊的だから接触があるのではなくて、家族に憑いていることが判明するのだった。

家族に憑いている祖霊をまず、祓う。とてもじゃないが、私ひとりの霊力を使って執り行うとするならば、それこそ、高僧のような生き方をせねばならないので、私の場合は祈願を数年かけて執り行う。最終的には、天上界の一員として働けるまで継続して行う。


そうしていくと、まず、生きている人間から祖霊が剥がれる。祖霊が剥がれると、怒りや恐怖、苦しみ、絶望が、一人分減る。一人分減ったところで、祖霊だけではないので、継続して悪撃をかましていく。(毎日ではない)

波長同通しているよく知らない悪霊が実はそこにいるので、その悪霊も少しずつ撃退していかねばならない。小物ならばいいのだが、視ただけでぞっとする、かかわりたくないやつもいる。かかわりたくないやつは、そもそも、自分の悟りではまず無理なやつなので、自分の教学だとか反省とか実践を必ず重ねる。つまり、徳を積むタイプの修行をする。成功してはじめて、つまり、自分自身のなかで苦しみや悲しみ、絶望を乗り越える確かな現実的な成功という確信を経て、または確信なしに、捨て身覚悟の信仰心で、対峙する。


これ、かなり霊力使うから、バテ方が半端ない。


恨みつらみでたたるようなおなじみさん、代々たたってやるぞ、くらいな凶悪なタイプだと一週間寝込むかも知れない。やりきった後は、虚脱する。それこそ、私に滞留する光全部もってけ、くらいな勢いでないと、そもそも対峙できないから、普通はやらない。ただ、じっと見ていると、こういう凶悪なタイプは、あまりも、あまりあるほど、かわいそうな出来事があってそうなっている。ので、結局、やる。

凶悪な地獄霊のほとんどは、そもそもに、自身がひどいことをされている事実を知っていたか?

(叱ることのほうが多いかもしれないけど、そこを理解しないで叱っても意味無し)


で、こうしたものが魚群のようにいるので、蹴散らしながら、強そうなやつだけはしつこいので退治する。

これを何パターンも繰り返す。繰り返し続けていく。のは、たぶん、どこの家も同じだろうと思われる。そんな、一代、二代でどうにかなる代物ではない。

そのうち、凶悪なやつ、が地縁であるとは言い難い過去をもっていたので、ずっと探していたのだった。家系図を見ては、親戚筋を探しては、こんな罪を犯したやつはいなかったのか、こんな傷をおったやつはいなかったのか、何年もかけて調査したのは


私達三姉妹が、同じ年齢で同じ不幸を体験したからである。

その不幸の事実、が起きただろう人物を探した。または、その不幸を与えた人物を探した。偶然の一致にもほどがあるのだ。母にも聞いた。同じ経験をしていないかどうか。それくらい、ありえないことだった。わかったのは、まだ最近のことだった。フロンティアさんは知っている。相談もした。おなじみさんの仕業だろうと考えられた。


で、それらのおなじみさんのルーツがわかった。はっきりと、どこで何をしていただろうかのすべてが。だから、成仏に向けて、何をしたらいいのか、思案している最中なのだ。


日本には、廃村になった村、は多くあるはずだ。よくあるホラーもので、最近、息子が「ひぐらし、いいよ」とかいうてきたが、ああいう廃村になりかけている村もあるはずだ。その「ひぐらし」でさえ、引き寄せ、かとも思うたりするくらいだ。

さかのぼって、アパートから自宅に引き返したとき、磁場を上げる、小物を蹴散らかす以外にしたことがある。幽霊のポートキーになるのは、写真である。心霊写真なんか、お焚き上げにする必要はない。今すぐ、そのポートキーになっている、どこでもドア化してしまっている写真を捨てる、だけでいい。その怪しそうな「どこでもドア」をすべて捨てる、を行った。一度やっても出てくるもので、こんなところにあった、などと言って、完全に捨てるまでに、年をまたいでいる。

父の実家のある過疎化が進む村の社の写真と、その村の向こうにあった消えた廃村のかつての姿を映し出した写真である。その村は、今は、ダムの底になっている。


そして、私が見つけた記事は、その村の文化、を記した記事だった。


それを読んで、すべて合点がいった。妹が、離れの小部屋に寝ていても、「居心地がいい」と思うのもそれだ。その離れの小屋と同じような部屋に住まわされた人間の幽霊、が、妹に憑いているはずだ。


ことの詳細を書くほど、この憑依にまつわって起こしてきた不幸は、私にとっても、まだ癒えぬ不幸でもあって、というか、こんなことの理由で家族全員がおかしくなっていたなんて、腹が立つこと極まりなくて、今、ある。

(まぁ、そんな絶望するほどの不幸ではない。ただ、こんなやつらがおなじみさんなら、私達は経済的に豊かになることもないし、人間関係的にも幸福な状況になることはないだろう。)


生贄思想だとか、ねぇ、もう、てんでお門違いな仮説もあったんですよ。その状況に陥りやすい心境を想像して、自分の中にないか、とか、ねぇ、本当、ため息つくわ。


でもね、これって、ブラックナイトが夢で攻撃してきた後に、発見したものなんですよ。そして、さきほど、妹のひとりに、この話をしたところ、確信ですよね、確信。


私は、霊的な背景だけでなく、家族の発言そのものを記憶にとどめ、継時的に調査する。一致しなければ、お門違いなので、解決はしない。つまり、幸福な状況、が深度を深めたりはしない。つまり、やみくもにやってもできないことを知っているので、腹を据えて取り組んでいる、わけだ。

(つまり智慧が要る。廻光ですね。だから、供養には生きている人間の精進が必要と言われるんですよ。供養してもなんか効かないのであれば、自分の精進が必要なんですよ。)


このあたりに、ちょっと反抗心が沸き起こっているのは、少し想像できたかなと思う。そう、私は真剣に家庭ユートピアに取り組んでいるのだ。自分の感化力、だけを使って。


そして、よくあるように、昔のムラ社会というのは、ムラ全体で子供を育てましたでしょう?その仕組そのものは違っていても、その一個人は、組織の共有財産みたいな考え方ってね、そうなの、プレアデス、全体主義なんです。

ゴリ子はプレアデスの記憶があるのだが、プレアデスの霊言を読んだときに思ったのは「当たり前でしょ」だった。実は、私もそうだった。一個人は、社会のためにあって、社会の財産だったので、誰が育てようとも同じだった。親という概念はあるのだけれども、家族へ地球ほどの「私的な考え方」はなかった。

だから、公的奉仕の精神が備わっている。

でも、その公的奉仕は、家庭という概念が崩壊した上で成り立っている。


これをよく、考えなくてはならないんだよ。私達プレアデスは、智慧なきにあるならば、ただの貧乏神だ。プレアデスの文化を地球にそのまま、持ち込んで、生きるならば、ただの貧乏神、疫病神、でしかないんだよ。

それは、固有資産がもてないほどの貧乏だから、全体主義に生きるような、そんな精神に近い。
昔々の、日本のムラ社会のそれをよく見れば良い。


この話は、この記事だけで終われる内容でもない。もっと複雑だし、もっとデータはあるし、もっと裏付けとなる話はてんこもりだ。

だが、おなじみさんやら、祖霊やら、魔やら、これらの結果が「降魔の本道」にあるように、あらゆるものに笑顔を期待するなら、こういうことだ。

すべてを救え。
あ、最初の階段のやつとか、チャクラのあたりは、観自在力の磁力のあたりの話だね。 ミクロとマクロって、そうゆうかんじ。 フラクタルね。