ねえ、どう受け止める?
総裁先生の人生のお話。
気づいたことがあって、あれれと思った話。
総裁先生の人生の話でさ
◯三顧の礼を受けて入社。
◯リクルーターになったとき、自分よりも能力の低い人をリクルートするよう先輩から指導を受ける。
のこの2点について、総裁先生をリクルートした方と、総裁先生に助言した方が同一なのであれば、その方は、総裁先生が自分より能力が低いと判断した、ということになる。
それについてぼんやり考えていたときに、はじめに思ったのは、それくらいの無垢さが一番気楽であるということ。
だって、人からの評価なんて、流動的この上ないし。
次に考えたのは、事実はどうだったか。
同一の方でないならないに越したことはない。問題は同一の場合である。
霊能者たりうる者がそれも見抜けぬのか、と。
少なくとも、私には見抜けないなあ。
だって、霊視で分かるのは、その方のつきもの(よくもわるくも)だし、その方の思いの良し悪しだから
この世的にどう評価しているかの思考は、当事者ならなおのこと見抜けない。重たいか、軽いか、くらいしかわからない。
だって、流動的だもんね。根幹にある思想は、霊視でわかるもの、だけどさ。
このあたりのこと、ちょっと考えていたんだけど、やっぱり、可能性があるぶん、肉体があるぶん、流動性のある感じ方をするのは確かなことで、一日に何か起きたら、すぐさま変わるようなもの、の場合、
いちいち捉えて生きること自体が、生きることを放棄している。
霊能友達と、霊視できてないんだったら、霊言も嘘って話になるし、法も嘘ってことになるやんって話になって、ゲラゲラ笑った。
久しぶりに腹から笑った。
生きることって、精進がからんでくるから、法を選び、人を愛して信じて生かしあうのだから
人の精進に口を出すような観点で、霊視なんかしても、それこそが愚かなんだよね。
自分の人生には、愚直で盲目でよくて、自分にはよく判断し、他力に導かれるのがベストやなって思ったよ。
まあ、アンチが好きそうな矛盾でございました^_^