あっぴろげ
雪姫から、「妖怪すねかじりと…」の経典について感想を求められた。
あんなにあけすけなくていいのか、って聞かれた。
拝受する予定はなかったので
(私の精進への意欲は今のところ、貧乏神へ…だ)
一体、どういう内容なんだ、と聞いてみた。
偏差値やらなんやら、子育て中の家庭内あるある内容だとわかった。雪姫はあまり勉強に詳しくないので、私が知りうる限りのことを伝えた。
四ツ谷大塚とは、どういう塾か。
小学校受験とは。
偏差値とは何か。
MARCHとは何か。
教育研究所とは何か。
天才児教育とは何か。
知能検査、知能指数とは何か。
大学の勉強とはどんなものか。
その実際について。
そして、子育ての終盤戦に入りかけた頃の私が思う、一番学力がつく家庭についても。
落ち着いた癒しのある安心できる家庭。
勉強を徹夜してみたり、努力しまくっても、後で身体に不調が起きる。親に反発するのにエネルギーを使い果たして勉強どころではない子ども。
どうしたらよかったんだろう、と振り返ってみると、いろいろ思うことがあるなかで、自分ができなかったことも含めての結論として、私はそう思う。
長く子どもに与えてこれなかったいろいろを思い出しては、今の精一杯で、与えたいと思う。
わからない箇所を写真にして送ってくれたので、いろいろ教えながら、ふと
ああ、私もこういう母親だったな、とか考えていた。衝動性を抑えられない自分を呪いながら、泣きながら育てられないと訴えていた。
もともと私は、田舎の人間で、あんな風な考えなどもたないのに、沸き起こる衝動が抑えきれずに、長男にきつく強いた時期があったのだ。
長男は、亡羊にも似ている部分があり、また、私の理解の範疇を越えることもよくあった。とにかく、育てにくい子で、、、自閉症スペクトラムなのではと今も思う。
適応しきれていないこともあるんじゃないかな。生活するだけで、高ストレスだろう。
私自身も鬱になっていただろう。
ふと、そんなことを振り返って、興味深く思えた。雪姫が、こんな内容を書いていていいのかって聞いたから、
実にわかりやすいケース研究ではないか、と答えた。
悪魔、とはどういうものか、は抽象的であり
その悪魔とは人を不幸にしかしない思想エネルギーのことで実体などない。
その抽象的なものが、人を支配して行動させるとき、どんな風に話をして、どんな風に行動して、どんな風に人に影響させるのかは
人生というデータ、出来事というデータからしか見ることはできない。
大きな声で罵倒する、叱咤する、怒鳴りつける
親の言うことをきかせる、従わせる
(いくら、社会的なただしさや道徳的なことを話そうが、これを育てるとは言わない。)
が、K波動だということは、よくわかったことだが、少し読ませていただいて、確証を得た。
私の母の姿でもあったので、私が自分の母をなぞるように
私が思う一番嫌な母親の姿で、愛する息子に対峙するしかない自分を呪ったりもした。
母を悪魔祓いに連れて行った夜中、私は、寝ぼけつつ、Kの名前を聞いた。名前がわからないもの、かはわからないが、先日は、貧乏人、とも聞いた。
悪魔は、負けたとき、名前を言うが、名前だけでなく、自分が何者かを明らかにする一番最適な言葉、のときもある。
(悪魔は、日本人とは限らないし、ラテン語を使う魂かもしれない。ラテン語を今世使えない私は、本当は、ラテン語で貧乏人の名前を、聞いたかもしれない。
肝要なのは、悪魔は、霊であるので、言葉を話す肉がないということだ。
つまり、霊が話す言葉とは、想いから成る。
だから、想いを受け取って理解できる霊能者は、相手が何人であれ、何語を使うかに限らず、想いを受け取って、それを自分の母語で表現できて、当たり前なのだ。
肉体で考えてはいけない。こういうことは、魂を基点に考えることなんだ。)
これが、会社の上司ならどうか。
学校の友達ならどうか。
学校の先生ならどうか。
そのKの想いのエネルギーを、そのまま、誰かの肉体にあてはめたら、どんなふうに生活するのか。
そのモデルが、今世のKであり、そのKを自分達の家庭のなかで、どんなふうに部分的に存在するか、または存在したか
よく振り返って見れば
めちゃくちゃどこにでも存在するのがわかるだろう。
大悪魔の考え方とは、どんな人にもどんな場所でも、どんな人生にも、どこにでも見かける、人間ならば、当然に考えること、だから、大悪魔だと呼ぶわけなのだから。
嫉妬もよくある話だし
→ルシファー
結婚への絶望もよくある話出し
→ベルフェゴール
唯物論もよくある話だし
→バアル
生贄信仰もよくある話だし(✖︎自己犠牲)
→ベルゼベブ
ホラー好き、アングラ好きもよくある話だし
→ダンダリオン
お得大好き、強欲もよくある話だし
→アスモデウス
古きよき、権威を尊ぶもよくある話だし
→ベリアル
、、、キリがないわ。マジで。
現代の普通の人間だわ、悪魔というものそれは。だから、末法の世、なわけで。不幸になる考え方のバラエティがやばすぎる世、なわけで。
幸福になる考え方で、生きられるか、を精進しているわけですので、どれだけもケース研究ができたらいいと私は思う。
私は。私の今生の最後に実現したいこと。
私が個人で願ったことで実現していないことが、あとひとつだけある。
思想をわかりやすく表現された、法を学べる理想の人生モデルをかいまみることができる話。
それは、主人公と一体になって冒険できる物語で。主人公と同じ気持ちを共有するだけ、気づきが起きて、つきものがはがれるような、そういう話。
まだ、今は、生活するだけで、精一杯過ぎて、スタートラインにも立てていない。
だから、こうして、分かる人にだけでいいからヒントになれることがあればと書き綴っている。
あけっぴろげで、ケース研究として参考になるように、私もブログを書いている。
来世の私に繋がっていくといい。チェーンのように。
私は、主の教えに出会い、こんなことが分かる人生になる、なんて思いもしなかった。
目に見えないものをあるかないかを論じること自体が無意味だと、不可知論者であったのに
霊能者になる人生になるとは思いもしない。
わざわざ、近隣から影響を受けないよう、誰にも知り合いに会わない県外まで行って三帰した私が
データをとるように精進を調査、検証するなんて思いもしなかった。
どんな人生を小説に仕上げるだろうか。そんな余裕ができるまで、あともう少し。
まだ、私は知ることが多いから楽しみにして。
少し前は、何を知ればいいかわからなかったけど、今は。お金持ちのなり方を知る、を成功させることだとなんとなく思う。さあ、できるかな。
まだ、始まったばかり。