らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

仏に愛されるための祈り

夫に、仏に愛されてることに感謝だね、と話してみたら、ウンザリしたような顔をしていた。


それを見ながら、仏から愛されていないわけがないと信じている私の根拠はどこから来たのかなと考えていた。


嫌なことや悪いことにあうのは、自分が悪いことをしたからだと私は思うので、悪いことが起きるのは神様のせいではないと思う。


でも少なからず、不遇な目に合うと、神を呪ったり怒ったりをした人生もあったし、


今の人生でも、課題が来た時に、なぜ、私がと強く強く憎しみを募らせたことはあった。それが恨みのもとになってるとは思わずに。


この世は魂の訓練所だという言葉の意味がすごく嫌な重たいイメージが、何度も起死回生の偉大さを言うようだが、ふと


訓練所だと割り切ってしまえば、魂に刻むように毎日を苦にして生きなくていい


という爽快感に変わった。


で、その恨みつらみと怒りを通過して思うのは、四苦八苦、それを回避するための手立てなどなく、四苦八苦を経験しながら、神様の心で生きられるかという命題に過ぎなかったのでは、と、とても楽になったのだった。


そこまで来たら、怒りも憎しみも阿呆だったとしか言いようがなく、よく考えたら、そこに思いを張り巡らせて、因を見るものでもないと考えていたら


ああ、偽我とは、神の不在なまま生きる自分が、この世で経験して学習した蓄積物に過ぎず


この世で〜を実現したいのときに、


神の不在である偽我がまきちらかす強い想いすべてが執着となりえ、有限からマイナスを排除しようとする、完璧主義の排斥型になり、


神が存在する自分の強い思いは、願望という言葉になり、無限からプラスを増幅させようとする、失敗を繰り返して発展を選ぶ成功型になる。


というシンプルな構造に、統合されていった。


じゃあ、今までやってきたことは無駄になるのかというと、無駄にならない事実もまたあって。


そこまで、失敗しながらやってきたから、因果応報がよく分かるようになっていることと、足りなかったのは、行っている自力に比べて、他力の圧倒的な光だったことだ。


私が、納得していなかっただけだと思うんだけどね。起死回生を受けなければ成しえない、みたいな思いこみかもしれない。



でも。



無限の富の瞑想DVDをかけ流して寝ているのだけど、恐怖心のやつで、なんかでてきた。


女の人と、男の人。すごく恨んでたり、すごく悲しんでいたりして。


対話してたら、救済みたいなかんじになって。イメージに千手観音様も出てきたなあ。話してたら、その人達の背景に、その人達の人生絵図が映し出されたから、


何が失敗で、どうしたらいいかと、その人らが知らなかった真実を話してたら、黒い蜘蛛の糸が見えて、あっと思って。


宇宙世の信仰先だと思って、悪撃したら、黒い糸が消えた。まるで、邪悪な木だった。



彼らが魂の兄弟だったらいいな。



その一連の流れを見ていて、ハリポタの構造だなと。分霊箱。ヴォルデモートは男性だったけど。ヤマトノオロチみたいになるといいなあ。


どうやってもってくんだろう。。。。


あっ、信仰を運んでくれた感謝か。


少なからず、何もしなくても愛されてる実感があるのは、宇宙世のそれ、だと思う。なるほど。