らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

マニアックな話を書く

ここしばらく、じーと、起死回生を受けて、何の変化があるのかを、霊的な視点で、観察してきた。


イイシラセなんかは、この世的に現実的な、ストーリーが多い。そこから、霊的に何が起きているかは、とでも分かりにくい。


でも、信者なら自身の信仰のなかで何かを経験したのをヒントに、分かるかもしれない。


それはそれでいいと思う。私もよく、自分のいろんな精進のために、さまざまな成功体験を読み、理解し、自分のことのように喜び、主に感謝を捧げる。まわりや身近に聞けないときには、ヴォイシーを漁って読んだりする。成功体験はとても参考になるからだ。


さて、私がずっと知りたかったことは、「成功のヒント 講義」のなかに、「このあたりのことは、またの機会にお話することとします」と、さわり程度にしか書かれていなかったこと、である。


いろんな経典を漁っても、書いていない。でも、それに必要な教え、は、宇宙を含む最近の経典や御法話に書かれている。


悶々としてきた。でも、材料は集めてきた。



マニアックな話になる。



助言を受けて、素直にすっと精進なさる方もいる。私は、理屈に納得しないと嫌なタイプで、理屈がわからないからやってみる、もしながら、自分が知りたいことは、材料を、本当に塵から集めるみたいに、データを整理してきた。


私は、この塵のようなわかりにくいすべてを、主からのヒントだと思って、とても大切にしてきた。


どうして、そうなるのかと、その根拠が知りたかった。原因結果の法則、と言われればそうだが、起死回生から、私がわかってきたそれは、


宇宙世を含む原因結果、である。


幸いなことに、私は霊能者なので、宇宙世の一部を知っているし


(拒絶している部分は知れない。例えば、プレアデスで、明確な役職などは分からない。でも、7番がどんな星で、どんなことをしていて、そこで自分が何をしていたか、は、分かる。7番のなかでも、ちょっとえらい人ではあった。結構、リアルに分かるが、どこまで偉い人かは、心が乱れるので分からない。つまり、自分にとってどうでもいいことほど、心が揺れないので視れる。)


私の精鋭の法友は、ぐだろうというライングループ(私的なやつ)に属している。


信者さんならたいてい霊的な感性をお持ちな方もいらっしゃるなかで、私のその友人は、ほぼ霊能者で構成されてある。


透視やら未来視やら、過去世を見る、とかは、できる人とできない人もいるが、基本的に、そーゆーこと(霊能力に関すること)はどうでもいい。


私達の目下の関心は、


潜在意識をどうやって開拓して、どうやって魂が綺麗になるか、だけだ。分かるだけに、それしか関心がない。


なぜ、そんなことに目が向くかというと


私と同じで



理屈が分かると実践できて、めちゃくちゃ変わるし、ものすごく面白くって仕方がない



からだ。


しばらく、私が学びに停滞があって、みんな、私がとどまっている箇所で、私と同様、亀みたいに停滞が起きていた。


亀ながらも、みんな、何だか分からない重い荷物を載せて歩いていた。


そんななか、起死回生を私が受けた後に、私がだんだんわかってきたために、ちょっとずつ感化が起きていた。そんななか、停滞が蔓延していたのについにキレて、以下のような話をした。(コピペした)


「苦しみがなんなのかわからないが、その苦しみがなくなることはあるのか?


この世によくある悩みなら、それに苦しむ必要はあるのかしら


苦しみに耐えるのが修行なんじゃないし


そもそも、苦しみの連続が生きること、でも存在すると言えるなら、苦しみが悪だとは言い難く、悪だとするべきは、


苦しみを歪ませてしまう心だったり

四苦八苦する心が何を常に考えているかじゃないのかしら


善というものは


悪と善で、善が対比的にあるわけではないので

善もまた、いずれのときは悪にもなりえる。


ただ、今の判断の先にある未来にカルマができないか、または、自分の何かの実現に枷となるのか、

(利他や精進も含めて)

未来に請け負う負のカルマを減らしたくて、善か悪かを定めているのではないか


仏から見たら、私らみたいなもんの判断など、みな未熟であるので、未来から見れば、今など悪であり続ける。


(ここで、公開処刑にあったMちゃんが、究極過ぎるってぼやいてた)


そうやって考えたとき、今、自分の心を占めるものが、現実から見たら、当然となる何かであるなら


心の揺らぎをメンテナンスすればいいだけだ。


精進って苦行をすることではない。自分がわからないことを分かることだと思う。


あなたは何の悟りを得たのか、そこが重要ではないのか。また、悟りとは、成功までをいうのでは?


その人生経験を通して、何を成功させたのかが、悟りだと思う。


なのでね、話を冒頭に戻すと、ぐだろう全般が

反省が中途半端になっているってことなんだわ。


無我になるために、否定否定否定をしていくのは、それはそうなんだけど、その後の蘇る、蘇る、蘇る、が圧倒的に少なすぎるから、発展が停滞してるんだよ。


悪かった、じゃあ、どうしたらよかったのか

こうしてみたらいいのではないか?

が反省であって


そのあとの実践がないから、当然発展もなければ、悟りもない。


どうしたらいいかも本当は法にあるが、そのどうしたらいいかが、


やりたくないとか、なんでかできないとか、はばめているのが(潜在意識下で繋がる)魂の兄弟で


実際のところ、やりたくないとか、力がないとか、色々あると思うけど、この想いの衝動が魂の兄弟のものだから、


反省しきれない。


だから、起死回生でぶちぬく必要がある。


その奥にあるのは、貞子の井戸の奥にいる魂の兄弟。そんな状況でさあ、魂の兄弟のリテイクまでやらされてて、今世実現するわけないでしょ。


魂の兄弟が悟るのは無理でしょ。彼らは、エルカン下生時に生まれない。


エルカンの分霊含めて、主がお生まれになり、法を伝えるとかには、本体である私達しか生まれたりしない。


だから、本体である私達が、魂の兄弟を救うことしかできない。逆はない。…」


などと話した。文字を打ちながら、私は、ロッテンマイヤーさんみたいにキレてるんだが、これらを読んで、みんなは、なんと


ワクワクすっぞ

オラ、ワクワクすっぞ!!


ってなったと言っていた。私なぞはキレた後、キレたことに後悔して、さぐったりしたが、どMな奴らばかりだったので、みんな変態だな、って改めて思った。


書いていて、疲れたので、また、続きは明日にする。