らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

自己愛のひと

心理学の専門書を読んでいて、自己防衛のいろいろとパーソナリティについて、悶々と読んでいた。


今までの体験知に照らし合わせながら読んでいた。ふむふむ。


総裁先生は、心理学の権威であるフロイト防衛機制について、お話されているが、それはそうである。


だって、神様とは別方向を向いているのだから、その通りとしか言いようがない。


なので、私はまた違った視点から見て、その上で、ある意味での、神を失ったその助長の形成プロセスを知るという目的を付与して、読んでみるようにしたら、すんなり読めるようになった。


大事なことは、機能不全に陥っている状況を、より機能できるように浮上させるために、私が何を知るか、だと思って。


で、ある種の、同じ傾向を持つ、つまりは、あの世的に同じようなカルマを持っている状況で、そのカルマには、同じくして、同じような課題、つまり、同じような魔があらわれるのだが。


夫と母に見られるのが、自己愛である。


自己愛の長い記述を読んでいて、たしかにそうだと思われながらも、ふと、ある箇所で統合された。


概観しかとらえなければ、神コンプレックスだとか、操作などとか、客観的に分かるもの、しかわからないものだが、記述されたある箇所を読んで、はっきりと知覚したのだ。


何かの現実的な役割を果たすように、何かをしてきたかどうか、という点。


母も夫も、経済的に貧困層で育ち、家族のなかでの役割として、母親が担うべき仕事をしていたのであった。


長女である母はそれに嫌気をさして腹を立てていた。末っ子である夫は、母親に好かれるためにやっていたと言う。


何もしないでも愛されるという実感、を彼らは持っていない。何かしなくては何かの機能を果たさなければ愛されないという確信。


これは…。



完成された神の不在だ。なるほど。


では、どうしたらいいのか。



レプタリアンのある人が話していたけど、神様にお祈りを促したときに見たヴィジョンが


戦場でマシンガンが乱射されてるなかで、信仰だけでその玉が当たらないことを信じて歩くような心地


だそうです。たしかに祈りとはそういうものですね。でも、また、神を信じる、も、そういうものだとも思うたりします。


まあ、心地の話で、実際には起きてないから、という理由で、やってみたらいいだけの話で、私はよくわかったけど


まさか、そんな話だとは思わなかった。



ルシフェルもそんなことだったのかしら。たしかに、そうかもしれないなあ。


神さまの教えを守らなければ愛されないと、思ってるのかも。そうじゃないんだけどね。神様の威光がどういうものかを理解しなかっただけだと思うんだけどな。


いいか、悪いか、しかない世界だとそうなるのかしら。


追記


お風呂でボーっとしてたら、じゃあ、具体的にどうしたらいいのかという命題が出てきたので、具体的に考えてみた。


信仰を与えられたのは、偶然でも必然でもなくて、神様が与えてくださったことと確信して感謝することを深める。


次に、その神様の御使で、ひとから人へと運ばれてここまできたすべてのこと、すべての人に感謝することを思い深める。


もし、それをしない人がいたら?


自分が当たり前のように実践して、感謝で泣いて、その自分でかかわり続けて、自然な影響を期待しないで待つ。


あの右巻きの、宇宙の光の湧水のように。


または、法輪がまわるさまのように。


起死回生やばいぜ笑笑