なんで分かるの?
私が話を聞いてる時に
なんで分かるの?って泣きながら言う人はわりといたんだ。
起死回生を受けて、なんで分かるのかって言うその話を思い出した理由は
「自分が通過したから分かるようになった法友のあれそれ」
を知覚したからであった。私が敬愛するお姉さまが、いつも教えてくれる内容は、おそらく、お姉さまが通過して得てきた悟りなのだろうとも思う。
霊能力というよりも、「その感じ」が分かるだけの経験があるというように。
…それは、ある種の感性、でもあると思う。
悟り即伝道、は、私にとってはその感覚であって、自分が反省して乗り越えて成功したルートが明らかになってるからこそ、伝えられるもの、だと思っている。
だから、お相手の矛盾も突けるし、苦しみも理解した上で、どういう想いのねじれ、なのかも、経てきたぶん、まるで、数学の計算問題のように、よく見通しが効く。
でも、その見通しどおりに、話が聞ける人と聞けない人がいる。
こちらを信頼していても、なお、話を聞いても、なお、計算の答えが出せずに、心が拒絶してしまう人もいる。
拒絶も、聞けないことも、何もかもが、悪いこと、ではなくて
受け入れたり、判断したり、に、時間がかかるってことなんだと思う。
誰だって、受け入れるまでに咀嚼も必要だし、時間がかかるものだと思う。
時間をかけてでも自分が出した答え、は、とっても大事だし、タイミングが来たら、また、その答えの練り直しを自分が選んだことだからこそ、考えることができる。
そのヒントがただしい論理の宗教の教えであるからこそ、教えや信仰は、真っ暗ななかでの法灯と呼べるもの。
その法灯のもと、
私達が人生をどうやって歩むかには自由という責任の下ゆるされている。
でも、咀嚼して理解するのに、自分の見つめたくない心、は、あると思うから
時間がかかるもの、は、存在するんだと思う。
私が起死回生を受ける理由を見つけに数年かけてしまったように笑笑
だから、なんで分かるのか、に、霊能力を使う必要なんてあまりなくて、分かる人は分かるものだと思う。
むしろ、それも霊能力だというなら、無自覚な霊能者はたくさんいると思う。
霊力を使わずに生きている人がいないように。
写真だけ見てリーディングするのは、霊能力だと思うけど。でも、霊能力を使わなくても、データが集まって、顔の特徴でなんとなくわかるようになってしまったな。
顔つきの責任は大事ね。
目、は、一番特徴が出やすいかな。
でもさ、そういうもの、は、幸福になるために使うものだと思う。でも、幸福になるために、受け入れて咀嚼してどうしたらいいかを考えること、は、教えに照らし合わせながら、自分でどうしたいかをよく考えるもの、だと思う。
だから、エンターテインメントではあるけれど、学びに必要かと言われたら
私はまったく必要だと思わないな。
ただ、どうしても必要なのは、あの世がどうなってるのかとか、禅定が成立するにはどうしたらいいか、なんかかなと思う。
年をとると身体が硬くなるのは仕方ないのは実感する。そういう場合は、寝座のが向いていると思う。でも、印や座禅の型には、魂のエネルギーが固定されるから、重要なのも確か。
なんで分かるのか、にもいろいろある。全部霊能力で分かるようにして生きていたら、死んじゃうと思う。
とくに、普通に仕事して生きることは、まずできないと思う。だから、私は、昼間は、そんなふうに生きていなくて、現実をしっかり生きている。
だから、データが集まってしまうのかもしれない。