らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

約束のネバーランド

最近、鬼滅の刃をアマプラで見たり、次いで、ピックアップされてくる約束のネバーランドを見たりしてる。

 

どちらも、キーワードは鬼である。

 

鬼という目に見えないものを視たことがあるかと言われたら、ある、と私は言う。

 

じゃあ、鬼滅の刃約束のネバーランドみたいな感じの鬼か、と問われたら、それは違うと私は言う。

 

実際に、霊的に視る鬼は、もうちょっと、純粋な悪意の塊である。鬼、という形態をとるまでの想いの塊ときたら、それは、相当なものである。

 

じゃあ、その霊的に視る鬼の生前の人生とはどんなものかと言われたら、鬼滅の刃で描かれるような鬼の考え方で生きてきた者達だろうと思う。とても情緒性の高い作品である。対比性も見事である。

 

だが、なんとなく、柱やかまど少年達の、歯切れのいい生き方は、どこか、同じ人間の分身形態にも感じられる。

 

かえって、約束のネバーランドは、ただ、人間を食すという生存本能という生態が表に出されており、その生存本能自体の是非を問うことができない。ただ、その抗えない生存本能への処し方、折り合いのつけ方の是非を問うに過ぎない。

 

見えない世界の鬼と狐は、相性がいいとは確かにそうで、鬼も狐も同じ考え方のように感じられる。ただ、筋肉バカに近しい人種が鬼へと姿を変え、他者を操作するに近しい人種が狐へと姿を変えたように思える。

 

また、鬼と狐それぞれにも、加害者側面の強いもの、被害者側面の強いものと、また二種に分かれる。

 

狐も鬼も、それほど変わらないもの、である。

 

鬼は念力が強く反作用も現実化しやすい。狐は精神作用を引き起こしやすいように思う。

 

どちらにもないキーワードは

 

自己犠牲と神への愛、かなと思う。

 

もし、そんな概念がぶちこまれたら、修羅界は崩壊するだろうということで、約束のネバーランド鬼滅の刃も作品自体が成り立たない。

 

波長同通とはそういうものであるし、作品とはそういうものである。

 

 

なんとなく、じゃあ、どういう作品が神の存在をあらわにするかと考えると、預言者を主人公とするしか、どうも無理ではないかと思うのである。

 

 

約束のネバーランド

 

カナンの地かな。

桃源郷か。

涅槃か。

はたまた、仏国土ユートピアか。

 

 

…幸福って、きっと、あまり現実の劇的な変化とかじゃないんだと思う。

 

同じ日常生活を呪って生きる人もいるし、感謝して生きる人もいる。

 

同じ人間なんだから、そんなに生きることに必要なものって変わらないと思う。要は、ワガママに拒絶するか、受け入れて感謝するか、そんなシンプルなことだと思う。

 

あんな風に、喰われるような恐怖に支配されてしまう人も、誤って恐怖を与えてしまった人も、傷が癒えて、誤解が消えて、人の輪のなかで、自分らしく、喜ばれる人の役に立つように、時間が流れますように。