らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

肉眼で視えるとき

あまり肉眼で視ることがないのだが、先日神様がいらっしゃるのを久々に肉眼でとらえたのでK君とシェアした。

うちの寝室にいらっしゃる彼の御方。あの神様である。

何も言わずに、うちにいる指導霊の数を言ってもらった。でも、彼がとらえた数体はふわふわゆるゆる天使だったので、ふーんと答えた。しばらくして、彼の御方、をとらえて、びびっていた。…うん。まぁ、そうだよな。うん。

あの夫に指導をしたくって、私のところに「ちょっと言うとけ」と教えてくれた彼の御方は、ちょっと、あまり見ない格の高い神様である。そう、本来なら「そこにいるだけ」で与えてくれる本当にありがたーーい存在なのである。いらっしゃったのは今回で3回目である。ふむ。私が気づいただけで、3回という意味だ。

1回目は、「はじめまして、神様」ってな具合で、私がはじめて、私のためにいらしてたときに、肉眼で気づいた。そう、あの蜃気楼のように歪んで見えたのだ。このときは、SNSで小説を書いていて、その読者さんを片っ端から、祓っていたときである。幼児と乳児を抱えながら、携帯片手に祓いまくっていた。最初は丁寧に話を聞きながら、気付きを伝える、を行っていたが、6体くらい、性別の異なる悪霊を憑けて、性認識がおかしくなっている同年代の男性にぶちあたったときは、もう、キャパを超えていた(粘着ストーカーもいた)。

なので、「本能」のような全身を逆撫でる何か、が体を貫通するようなエネルギーが駆け抜けていくような状態が、いつからか身についた。強いて言うなら、「スーパーサイヤ人」になった。

なぜか、その状態でファアアアと言葉にできないなにかを発すると、なぜか沈静化するので、いつからからそれが「常態」になった。あまりやりすぎると、霊体に傷がついたようで、しくしくとあちこちが痛むようになった。その痛みを抱えて、息子たちを公園につれていき、その夕方に、ようやく気づいたのだった。

私は、傭兵のような活躍をしていたのに、いらしてくださったことに驚きながらも、神様の中はどうなっているのか、と興味を持った。おそるおそる、すいません、と声をかけながら、寝しなに、私はこともあろうに、神様の霊体のなかに「こんにちは」と入っていった。


衝撃だった。

神様のなかは、天国があった。世界があったのだ。


ひとの心を霊視をすると、そのひとの心はおおよそ、世界と繋がっていない。狭い空間のなかで、そのひとが好きなものやこだわっているものが視える。そのひととそれのかかわりも視える。だけど、神様のなかの世界には、ひとの魂がいくつもあって、言葉のとおり、世界があったのだった。

多次元宇宙の仕組み、つまり、たまねぎ構造の世界を、直に視たのだった。

でも、私はというと、傭兵だったので、魂はたまねぎ構造なんだよという表記のある経典を、その時点で読んではいなかった。読むことは、検証もなく「盲信」しないかが心配だったので、極力、読む本の数をあえておさえていた。でも、この体験とそれ以外の体験を積み重ねた後、実はそうなっているのではないかと仮説を立てた、数年後、たまねぎ構造の話を読んで、私はため息をついて、濫読することを自分に解禁したのはよく覚えている。「はじめまして神様」の体験はこんな感じだ。

2回めは、ユートピア家庭を目指して、絶望に均しい実態を抱えながら、あきらめることもできず、逃げ出すこともできずに、私はただ息をしているだけの、やはり、「瀕死状態」だったときだ。このときも、連日、夫と息子に魔が入っていて、とんでもない状態だった。まぁ、荒れた家庭だった、と言えば、現実的にはおさまりがつくだろうが、記憶が抜け落ちる彼らと対峙した日々は、まだ、私の胸の傷になっていて、癒やされるのを待っている。

この時期にいらしたとき、御本尊の部屋にこたつをおいていたのだが、御本尊の左側に鎮座したその体の大きさは、ひとくらいあった。ひとの大きさをした蜃気楼が、数週間そこに鎮座していただけたおかげで、私は、つかの間の休息を得た。また、その時期に、多くの御法話を家族で見ることができたが、ついぞ、エネルギーが足りなくなっていたので、開始後5分もしないうちに、家族5人が爆睡したのも、記憶に新しい。

それと同格の神様だと言うならば、ちょっと本当に、おそれおおい存在である。
(この後に起きるすべてはちょっと大変だけど飛躍のときとなる)

K君はこうしたクラスの神様を見るのははじめてだろうから、そら、びっくりしただろう。大きな使命があるところにしかこないような感じ、と彼は表現したが、大きな使命かどうかは知らないが、家庭ユートピアだとか、傭兵のような光のマシンガンを手当たり次第ぶっ放していたら来てくださるのは、確かである。

ただ、家庭ユートピアのときは、ただ、「絶対にやり続ける」という気迫だけは、言葉どおり命というか人生をかけていたので、その思いの強さに答えてくださったのかもしれない。夢を見たのだった。そう、来てくださる、という夢を見たのだった。なぜか、ゴリ子がそれを拾っていた。二人の陽気なミュージシャンがいて、ビートたけしのような重鎮が、難しいぞ、まず無理だろうなと脅すなか、私が「それでもやる」と答えたら、「俺がついてるから安心しろ、どんと構えておけばいい」と言った内容だったそうだ。

他の霊能者さんからもいろいろ教えてくれたキーワードがあったり、私が拾ったいくつかも掛け合わせると、それは、「ウォルト」であるに違いなかったし、陽気なミュージシャンは「フィッシャーマンブラザーズ」に違いなかった。私にとっては、それが事実だか、真実かどうかは問題ではなく、そうやって、見守ってくださる方がいらっしゃるという事実だけでありがたかった。簡単に言えば、神様というものは、「何もしてくれない」。そうやって期待するものではない。

でも、ちゃんと見守ってくださるから、修行者である私達は、安心することができる。そして、心を負かさないでいられる。強くいられるだけの光を与えてくださる。ぜんぶ、目に見えないもの、だ。


で、K君にどうやって視えるのかを聞いた。蜃気楼のように視えるわけではないらしい。結界を肉眼で見るときは、蜃気楼のように歪んで見えるらしい。ふーーーん。

結界は、雨上がりの蜘蛛の巣のような感じで、光るレース、で私は見える。たぶん、法輪のような図柄なんだろうなと思う。もしくは曼荼羅。光でその図柄がちらちら見えるといった具合だ。

かえって神様はどう見えるのか、と聞いたら、なんと光って見えるらしい。


・・・・どゆこと?肉眼で、空間が光るってどういうことw


水晶玉の話になった。最近、怪しき界隈のあたりを調査するにあたり、あの大きな水晶玉が気になっているのだが、あれは何のために必要なのだろう、と考えていた。

あれって、世界が反転して見えるでしょう?
霊視したときに東西南北が反転して視えるときあるじゃんね

どういう具合でそうなるのかわからないけれど、現実のなにかを霊視するときは、東西南北で視えるときがあって、それはどうするとそうなるのかわからないけど、その誤差を埋めるために、霊視では背面か同軸で視てるそれを、前面にある水晶玉に位置づけて視ることで

東西南北の反転図を修正して視ることができるんじゃないか?と言ってみたら

K君も盛り上がってくれた。たぶん、そうなんだろうなぁと思うのだが、いや、水晶玉を通して霊視するって、ちょっと不便なんじゃないかと思いつつも、水晶玉を使う霊能者さんの視え方は、DVDを見るように、テレビ画面を見るように映っているのかと思うと…


げぼがでそうだ。