らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

アメリカン・ゴッズ

先日、スモーカー仲間が教えてくれた動画を見てみる。ただいま、シーズン2。   古き神がアメリカで復権を果たそうとする暴力的なシーンもある動画だという紹介を受けた。  

 

 

  とりあえず、見てみると、やっぱり、神、人間、というものが間違って描写されているところが気になる。でも、ちょっと我慢して見てみる。   我慢して見てみると、なんだか、見たことがあるメタファーがたくさんでてくる。ベティと名付けられた真っ黒なアメ車だとか。後半のスーパーナチュラルそっくりだし、あれにも似てる。サタンの息子がでてくる映画。グッドオーメンズ。

 

    

  アメリカはアメリカって感じ。

 

そもそも、アメリカは歴史が浅く、神の歴史もない。それが理由かはわからないが、「神」への畏敬を感じない。

 

SuperNaturalとAmericanGodsの共通の思想は、「人間が神を造った」ところだ。だからこそ、フォロワーである人間の数で、神の威厳や威力に影響する。

 

 人間が地上で神を信じなくなると、神は消滅する。だから、神は進化するか消滅するかを問われ、現実的には、アップグレードするのか、新しき神と戦うか、を問われる。神と人間が並列関係にあり、カースト制を踏襲するだけで、神のワガママに人間が付き合ってあげているような構図さえ見えてくる。

 

だから、前半には、ワガママな神に離反する人間の復讐を描くように、古き神の落ちぶれを表現する。そして、オーディンは、終始、詐欺師や嘘つきだと罵られる。   いや、伝承そのままを忠実にリキャラクタライズしたという感じもある。ウェンズデイ、でオーディンを連想したひともいるだろう。   神と一体を、人間と神との性行為で表現するのは、、、まぁ、わからなくもない。かと言って、その表現はとても下賤だと思う。精神的なものと肉体的なものをごっちゃまぜにするとこうなるのかもしれない。それは単なる、セックス礼拝にならないのだろうか。

 

ゲームの世界に出てくる精霊や神々の名前、そして、それらを使役したり、攻略して馴染みを得た上で、そのまま、「お話」のメタとして神々を使っている印象すら受ける。   「神様という役割を演じている人間、を演劇する」という演劇を見ている錯覚に陥る。神を知らぬものは、「神様という役割を演じている人間」を「神」だと思うだろう。つまり、神ではないものを神だと教える教育としては最高だろうな、と思う。   …本当の神様だとか人間のそれを描くことを求めてはいけないとわかっていつつもツッコミをいれないと気がすまない。  

 

 

作者の年齢は私よりも少し上の年齢そうだろうなと思った。神のリノベーションがテーマになるのだが、これに着目し、何の舞台でどう表現するのかが、作者の心のうちにあるものを展開するからだ。小説家などの作者が描く世界観は、その作者の視点で表現するものであるから、もちろん、作者の心の内にある世界観と同等であって然りなのだ。ちょっとお兄さんかお姉さんに親しみを覚える。  

 

レプラコーンとローラの関係を描く、過去世のお話だろうと思われるあの映像は感慨ぶかかった。人生としては立派とは言えなくもないが、信仰、という意味では、興味深いその人生と信仰であった。信仰のそれ、はそのままだが、レプラコーンを信仰するとその人生で当然である。それで、レプラコーンは、自分そっくりレプラコーン女、ローラに恋をするのだが、このあたり、お話をつくるひとらしい展開である。  

 

自分を愛そうとするようにひとを愛したとき、自分の愛の形で愛されることで、その愛が糞だと思うこと、の連鎖をどこでたてるかが、課題だと言うのにね。   レプラコーンがいい筋肉なのが驚きだ。リッキーウィトルはかっこいいが、この陳腐なドラマには似合わない。彼にはもっとクールな映画に出てほしい。  

 

ブルースラングレーのクレイジーっぷりは、はまり役だと思う。このクレイジーっぷりが100%だと胸焼けがするが、このオールドテイストが散りばめられている作品には、ちょうどいいエッセンスになる。

 

  「ただ、ただ、苦難に耐えるのが信仰」に中指を突き立てるのは同意する。  

 

でも、私にはやっぱり、お兄さんかお姉さんが、20代を懐かしんでいて、20代のまま、偽って今を生きているように見える作品だった。

 

  でもって、霊能者である私から指摘する。  

 

○教えがないと神と人間を分け隔てる要素が理解できなくなるという結果としては、最高の作品。

 

 ○超能力信仰か、策略信仰か、どれでもいいが、富を得るために必要なサバイバルを描いているのも、教えの要素がないからこそ、奪い合う構図ができてしまう。  

 

○キリストはそこぞこの文化で独立した意識、を持つわけではない。つまり、キリストは何百人もいない。光には実態がない。虹を見るように、その土地からの見え方は違うけれど、虹は虹だ。そして、キリストからは、その心を通して語りかけたものは、覚えている。彼は神の子ではあるが、神そのものだ。

 

○信仰するということは、その神と同一になるように近づいてくということと同義である。恩恵だけ受けようと思うのはおかしなこと。レプラコーンらの関係のように、この映画にでてくる信仰者と神のペアリングは、神にひとが近づくようにひとが努力する、とは違っている質を見るものだ。

 

オーディンはもっとスマートだ。  

 

神々が、人間を表現することに使われるなんて、真実を知る機会がなくなるではないか。

 

うん、やっぱり、これだ。神人合一、も、ここまで曲がった解釈になるなら、思想を説明する言葉がそれこそアップグレードする必要があるんじゃないか?

 

アメリカン・ゴッズは、「神様という役割を演じている人間」を演劇した動画だ。