らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

嫉妬というワード

ブログテーマを提案してくださった方、ごめんなさい。

ちょっと、気持ちをおさめるために、先程起こったことを書かせてください。

私は、裏表がないと言いましたが、このブログも、現在只今の心で書いているので、どうしても、今さっき、妹と話をしていたことを書きたいのです。そして、それは、「嫉妬」にまつわるワードなので、どうしても書いておきたいのです。

さきほどの記事で、「嫉妬」が憎しみだと言いました。

実は、夕食の食卓の話題でそれがわかったからです。年末から、妹の心の揺れ、を聞いてきた話に、批判が多かったのですが、その批判の大元の原因を詳しく聞いていくと、「自分のときとは違っていた」誰かへの強い嫉妬が隠れてました。その嫉妬を、納得がいくような丁寧な解説をしないまま、「嫉妬だよ」と指摘すると、「もぉ、大嫌い」と叫んで、心が塞ぐことが数回ありました。夕食時には、その妹の様子を叱責し、その状態の妹の何気ない言葉が、周囲にいる誰かを傷つけていることを指摘しました。

ブログを書きながら、はたと、愛ではないそれは「嫉妬」で、彼女の様子を見ていると、「憎しみ」に近い「嫌悪」、生理的嫌悪、だと気づいたのでした。


雇い止めになった私は占いをすることがありました。自分の気持をおさめるためにです。自分ではタロットカードができないので、ネットでのタロットをしました。暇つぶしで、よく知りもしないのに、でてくるカードで気になるのが「嫉妬」でした。毎回、嫉妬のカードが出るのです。

私は、「嫉妬」してもおかしくない状況だったので、そのカードが出るのかなとも思いました。「嫉妬」しないように、心からのひとの成功への祝福を心がけてみました。バンドエイドとはそういうものだと思います。それに、そのカードが正しくなかろうが、正しかろうが、したほうがいいことを楽しんでやるのは、私の得意とすることです。

で、また、妹の話を聞いていると「嫉妬」が結論でした。

私が指摘した後、真ん中妹に慰められていましたが、ブログを投稿した後、すぐに、ロッカー室裏に呼び出しました。私の敬愛する菩薩様も、以前、「ちょっときな」とくいっと指をたてて、おずおずと重たい首をさげていったところ、熱い叱責をしてくださったことがあるのですが、私は今でも忘れませんww

あれは、ちょっとした、スケ番ですwww
(本人には言えない)

「もうだめなんです、できません」とさめざめと泣く私を、尻目に、「できませんじゃあああなああああいいいいい」ととくとくと、裏の顔でしばきたおす菩薩様は、私のお母様のひとり、のような存在ですwww

シスターレディって感じ。

まぁ、「ロッカー裏」という技を覚えた私は、ときどきそうして、楽しんで、「ロッカー裏」につれていきます。でも、ときどき、そうして、私も連れて行かれることがあります。ミッションが与えられるときは、逃げ出そうと準備している私を固定して、ミッションを与えるひとがたまにいます。

与えられるほうは、とんでもないことですwww

でも、そういうときって、劇的ないいこと、になる前触れ、のようなものですよね。


で、らいらカウンセリングをしてみました。シンクロ率70%っていうところです。ちょっと聞き取りをしてみたら、やっぱり「本人」じゃなかったです。「嫉妬」をやめようと思っても、やめることができないのは、「祝福」ができないからに違いないのですが、どちらの方向に揺さぶっても、動かないのです。動かないってことは何かあるなって思って、その「憎しみ」の感じを遊離させて、その感じが訴えることを翻訳するように、伝えました。

つまり、「憎しみ」の感じが何を主張するのかを、イメージ化して、言葉にする、ってことです。

シンクロ率が高くって、本人がそれを「自分」だと思っているときはこんなことしちゃだめですからね。ここまで「慣れさせる」のも大変なものです。

いくつか問答して、ひとに転化している特徴をピックアップさせたところ、それは「ご長男」でした。なんと、その話を書いている直後とはww

それで、ちょっといじめました。もう、ちょっと、本当に私、大変ですし、ちょっとした迷惑料だと思ってもいいかなって思って。「嫌なことを言ってやりました」。最初、妹の顔をして妹の言葉で主張していたのですが、名前を言うと「睨みつけた」そうです。そして、間違いを指摘すると「睨みつけ」、嫌なことを言うと、「ショボーン」となりました。「ショボーン」は間違っていますからねw

間違いを指摘するのであって、本当は、いじめてはなりません。
(ちょっと遊びたかったんだもの。こういう遊びのところが、あかんほうにでましたね)


シンクロ率が高くて、妹のほうで「やる気がない」状態になったので、じゃあねっていうと食い下がったので、じゃあ、波長を切る、それと決別する気概をもてと叱咤し、リチャレンジです。

でも、やっぱり、できない。

もう、そこまで来ると、妹ではないことは明白なので、「悪魔祓い」したら、と勧めました。でも、悪撃もチャレンジさせました。でも、やってもできないし、やりたくない気持ちになってしまう、と情けないことを言うので、仕方がないので、いくつか法施をした後、私が悪撃しました。

私の左目、左肩をかする形で、私に向かって飛び出してきました。

でも、あちらは「目に見えないやつ」なので、私は痛くありませんwwでも、飛び出してきた勢いと、私に向かってきたところそのものが、悪意を感じました。仕方ないです。ちょっといじってしまいましたから。だて、に、同じ傾向性をもっていません。的確に「いじりました」。

妹のそれは、実は、そのずっと以前に、ヒントがありました。「共感」すると「そのひとと同じ気持ち」になってしまう、という訴えがすでにあって、若き精鋭部隊のグループに投下されていました。

実は、かつての私もそうだったので、その答えを知っていました。救済は、「同じ気持ち」になっていては絶対にできません。こちらが「信じていなければ」、できないのです。同じ哀しみに、同じ苦しみに、同じようになってしまうと、絶対に救済できません。

穴に落ちてしまったなにかをすくいあげようとしたら、高いところから、手を伸ばして、つかまなければなりません。でも、自分も穴に落ちてしまったら、一緒に穴のなかで、誰かがすくいあげてくれるのを待つしかなくなるんですよ。その穴のなかにいるうちは、同じ苦しみを、「現実」を通して、味わいます。

その期間が短いか、長いかは、ひとによって違います。気づかなければ、ずっと、穴に堕ちたままです。

人情とは、その「穴」に一緒に落ちることです。「義憤」を感じた相手のいる場所に、自分も自ら飛び堕ちることと同じです。傷つけられたほうと自分が一体になれば、被害者という意識に通じ、加害者と被害者のいるその層へ、堕ちます。ですから、そうしたときに行うことは「祈り」が妥当です。

(君のまなざし、で、こどもを殺されて鬼になった方がいましたね。義憤とはあれと同じものです。あれはアウトです。なのに、義憤を感じさせやすい内容にしたことは何の意図があってでしょうか。だから、人情でけつらかされるやつ、だと今でこそわかりやすいなと思います。)

まだ、なかにある感じがする、と妹は言いました。私も、いまだにあるんですが、ひととの「一体感」や「連帯感」とは、「志」を通して与えられるものです。なのに、その「志」を介さないで、ひととの距離が近しいところ、ひとはそれを「愛している」と呼びやすいのですが、そのところにあるときには、「愛」と「憎しみ」は表裏一体の状態になっていることがほとんどです。

自分と一緒であれば「愛」になり、違うとなれば「憎しみ」に転化するゾーンです。

ここは「人情」のゾーンで、決して、「愛」とは呼ばない意識体です。でも、よくひとは、これを「愛」だと思っています。

ひとを介しての、自分ではないひとの魔を、自分のなかに入れていることがわかったため

(法施に応じない、頭では納得するのに憎しみが溶けない、まるで明るくないおじゃる丸のびんちゃんのような重たさ)

反省することをやめさせ、嫌悪するひとへ悪撃することを処方箋として出しました。


それが、「ひとと一体」にならないバリアになるからです。ひとが悪、だとかではなくて、ひとに憑いている悪霊と「潜在意識の魔」をいちどきに抜こうとする取り組みでもあります。(理屈を知りたい人は、3時間ほど、個人授業しましょうかw)

なぜ、「主と一体になれないのか」って妹は嘆いていましたが、そもそも、ひとと一体になっているときに、主と一体、つまり、主の方へ心が向けられるわけがないのでしたwww

主を心で見ながら、目の前にいるひとを肉の目で見る、その双方向が大事なんですよ


(いや、難しいよ、本当は。自分がそこにいながら、いないようになる感じ。心は御本尊へ行ってるから)

神様方向、ひと方向、悪魔方向、のどれかと常に自分の霊は繋がっているとお考えください。ずーーーっと神様方向に心が繋がっていないと、自分、というものは、本来、存在ができないように、「自分ではないのです」。人方向に心を繋げると、神様の方向から光が流れ続けている、という状態は作れません。(この話は、「富の引き寄せ」と関連があります。)


そこからは、一度体験したのだから、崖を這い上がる虎の子のように、自分で剣をふるがよいwww


でもね。でもね。

わかっちゃったの!!

ひとを悪撃したときに、「生意気」「大嫌い」「見返り」と言われたことのそれを思い出したの!!

そのひと、は!!!!
私に嫉妬していたのだと考えると!!!!!!

すっっっっっっごおおおおおおおおく
思い当たるの!!!!!!!!!!!

もう、会話ででてたの!!!!!!
でてたのよおおおおおおおお!!!!!!

…私に嫉妬しているひと限定で、「言葉」が聞こえたのかな?
ちょっと、悪撃をむやみやたらにやってみて、聞こえるか調査してみるよ!!!!

もちろん、聞こえないヴァージョンも考えてるよ!!
聞こえなかったひとたちって、私に「嫉妬」するような方々ではないのよ!!!
ひととしても!!!!立場的にも!!!!

かえって、もう、言葉が聞こえた人は、「人の立場にたって気持ちを考える」ことができないみたい。会話で「立場にたって考える私の見立て」をしても、変な顔してて、後から、「こんなことがあった!!そうかも!!」って言うてらしたもん。

そればかりか、私は、そのひとの立場に立って、そのひとの気持ちを代弁したりした。今は、子犬と遊ぶように遊んでくれるような感じ、で、もちろん、私が子犬らしいんだけど、ね…

なんでだろうか。。。。

みんな、私と話すとき、5歳児と話すような。。。

ちょっと、保育園みたいなやりとりしてるよ、うん。

ま、いっか。私のお題は「嫉妬」だということがわかりました。でもね、「嫉妬」されるほうも問題だと思っているんですよ。でね、「嫉妬」が起きないように、私、いろいろ取り組んでみたんですよね。でもね、その取組みって、もう「三次元の戦略」の延長上で、まるで、わかっていないことに気づいたよ!!!

「嫉妬しないように距離をおいてくれ」「話さないでくれ」って、どこかの守護霊が涙を流して、夢で交渉にしきたことがある。私は、相手を褒めて、「同志」だと表明したけれど、仲良くはなれなかった。「同志」だと表明したけれど、私は、彼女のような「活動」は性格的に無理だったからでもある。

(こんなことしているように、私はかなりのインドア派で、アウトドア派な活発な元気な彼女とは、長くは一緒にいられない。疲れてしまうんだ。)

頼まれて、というのも大きい。肉体で生きていれば、そんなこと気づかない。でも、「嫉妬」の念はね、首を締めに来ることがあるんだよ。首にまとわりついて絞り上げる。「殺していいよ」って言うと、そういう念は外れる。でも、心からそう思うことが大事だよね。

キリストは、左の頬を殴られたら、右の頬を差し出せって言ったけど、あれ、対悪魔用だと思う。さすが、キリスト様、だと思う。魔が入って怒ったひとに対して、「そのとおりです」「申しわけありませんでした」って言うと、外れますよ。

逆にやられたこともしかりですが。。。。
(その折は申し訳ありません。自分の魔は、衝動的にもってかれたらとまりません。当たり前ですが、その場合は、私より優れた方にお願いをします。結構、お世話になっている方が多いです。本当、すいません。)

でも、これは、ひいちゃだめなこともありますからね。

けど、非がある場合は、すぐに認める、は大事ですね。

いいわけ、はだめです。
(状況説明という、いいわけしなくても、ひとは自分を見ていて理解してくれています。)
(甘えているひとへは状況説明したがる傾向を私は持っています。つまり、結構甘えています。)



いやあああああ、これは、もう!!!!!
最大の発見ですよ!!!

調和の精進は、「嫉妬」を降魔するんですね!!

そりゃああ、そうですね!!
考えたら、神に嫉妬したのが「悪魔」ですからね!!

ひとに嫉妬する
自分に嫉妬する

これを両方やらんとだめですね!!!!!!

やばーーーーーーーー!!!
じゃあああああああああ、

「愛」⇔「嫉妬」なら

「信じる」⇔「????」

智慧」⇔「????」

なんだろうねぇぇぇぇぇ
なんだろうかあああああああ!!!

やったーーーーー!!