らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

旦那のすごいところ

旦那が息子の適正について的確に述べたので、私の適正を聞いてみた。

「ひとと接する力はあるけれど、作業はやらせられんね」


そのとおりだと思う。素晴らしい見立てだと思う。


以前にも、私が関わっている若い子たちやいろんな方の彼の見立てを聞いたことがあるが、そのとおりだった。しかも、その判断までの時間は短い。そう、彼は「判断力」が優れている。

レプタリアンはわりと「三次元」的な力に傾倒しやすい。プレアデス間だと、多くの意見に「解決」が導き出されないことが多い。一刀両断するように、「正しい公平な見立て」をするにはレプタリアンはより優れる力があると思われる。

それはありがちなことだが、「自分が好きなひとをかばう」傾向にあるからだとも思う。また、「自分が嫌いなひとを避ける」傾向にもあるからだと思う。

公平な評価は、自分の好悪で判断基準を狂わせてはいけない。


でも、レプタリアンはわりと「愛が枯渇しやすい」。

すぐにへたれる。もっというと、自分に反省を要するような指摘を他人からされると、「モラハラ」「パワハラ」上等になる。とんでもない剣幕になる。本人がきづくように質問をしていくほうがよい。

それでも、質問をして自身が反省をしなければならないことが、答えていくうちに、だんだんと自分でわかってくると、「顔面蒼白」になり、暴れだすかのように、マシンガンでモラハラを開始しはじめる。


ここが…辛いところだ。「改善」を目的にすれば、受け入れやすくはなるかと思うが、「改善」が常にあるという状況よりも、今あるルールに適正に動いているか、を重要視しているようにも感じられる。


私が先だって、チャリティーセミナーを行ったとき、レプタリアンとプレアデスが混在していたため、私の反省からわかったことをふまえ、それぞれの特徴をぶつけてみた。どんなかんじがするのか、どんなことに落ち込むのか、どんなことで失敗しやすいのか、腹が立つことはどういうことか。


お互いにカルチャーショックを受けたようでとてもおもしろかった。
(プレアデスかレプタリアンかの判定は、知覚して蓄積されたデータ上であるぶんにはしている。その頃には、本人自身が自覚していることも多い。ただ、特徴にあてはまるところも大きいばかりか、「責める」ことで波長同通してしまい、皮をかぶっていることも多いので、初見で判断したりはしない。反省をある程度進めた上で、出現して視える霊体も加味する。)

主人が「愛ってなんだかわからない」と言っていて、私は何を言っているのだろうか、と流していたが、本人はとても長い間悩んでいたようだった。そして、あるとき、笑って言った。

「俺ってほんとにレプタリアンなんだな」

宇宙の法 黎明編でザムザが言った言葉から、そう感じたそうだ。目線も、レプタリアン目線だと、納得がいくらしい。かえって、プレアデス自覚のあるものは、タイラーに目線が行く。しかも、「愛されるものが傷つくことが許せない」衝動は、かなり強い。公平な正しさよりも何よりも、「愛するものが涙することが許せない」のだ。

プレアデスはルールよりも調和を優先しがちだが、レプタリアンは調和よりもルールを優先しがちだ。


職場と宗教修行の場面で言うならこうだ。

経典を読んで自分の考え方が間違っているとわかったとき。
プレアデス「へーーー!!そうなんだぁ」→ふーん
レプタリアン「がーーーん」→絶望

職場で一番腹が立つこと
プレアデス「強い口調で叱る場面が続くとき。」
レプタリアン「マニュアルと違うことを相談もしないで平気でまかりとおそうとするとき」

真剣に言うとこうだ。

レプタリアンは、組織で動くをしっかりと全うする。チームワークで一大事業をおこなうので、組織を無視した個人行動は、組織の命取りになる。個人行動は、組織だけでなく、自分の命にかかることでもある。なので、絶対にしないし、許されることではない。

プレアデスは、個人主義なので、ルールを無視しても、自己責任の範疇だと考える。自分の行動が他にどういう影響を与えるかの外的な要素を考えるよりも、自分が他にどういうふうに与えられるかを考える。だが、公平な観点で与えようと思っておらず、他にも「どうしてほしいか」を聞くこともないので、結局、自滅することがかなり多い。


そして、プレアデスは与えようとするわりには、与えられることを苦手とする。
レプタリアンは、与えられることをなんとも思わないので、要求することも拒否することも苦手ではない。


プレアデスは、善悪はなく、愛だけであるために、かえって混乱を招きやすい。
レプタリアンは、善悪はあるが、愛が枯渇しやすいので、ストレスに耐えられずいじわるをしやすい。

なので、お互いに歩み寄ることが一番いい道だと思われるのだ。

しかしながら、レプタリアンは、プレアデスの「能天気さ」を嫌う。命取りになるから。
しかしながら、プレアデスは、レプタリアンの「無神経さ」を嫌う。感性が乱れるから。


もうちょっと的確に正確に精査して言葉を選んだらいいのかもしれないが、おおざっぱに言うとこんなかんじだろう。

強烈な全体主義と、強烈な競争主義、ということでもある。


例えば、私は一番になりたいという気持ちもない。そんなことを思ったこともない。私が気にするのは、私の感性か、それとも、汎化された一定の基準に沿っているか、どうかである。なので、いろんな視点を同時にもつことができ、この場面にはこの基準、といったふうに、臨機応変さがある。これが、折衝能力に繋がっていく。もっと言えば、目的ごとにアプローチを変えることもさして迷いはない。自己肯定感がなくても、自分の中にぐっとはいって追求できる。ゆえに、自己中心性が高い。


だが、レプタリアンは「一番になりたい」。いつも、なにかと自分を比べる。背景に満たされていれば、突き抜けていくのだが、自己肯定感がないと「自信をすぐになくす」。改善とは今の自分を否定しつづけて変革していくことなので、その否定が続けば続くほど、「劣等感」を引き起こしやすい。絶えず、誰かから承認を受けなければ耐えられない。が、承認を受けたところで、話は聞いていない。自分が立ちあがるまで、やいやい病を気が済むまで行う。


しかしながら、プレアデスは調和を軸にしているので、たえず、他を意識している。平和であるかどうか、笑っているかどうか、いい雰囲気かどうかを。だから、自分に「自己中心性」が高いなんて、一粒も思っていない。この自己中心性は、自分のふるまいが、公平な観点にたって、組織力の一部でしかない自分が他に与える影響を問うているのだが、土台気にする視点すらない。中年の私は、仕事をすることでこうした部分を削ぎ落としてきたが、なぜか、私の言葉はよく通るようで、気をつけなければならないな、と思うこと然りである。

レプタリアンは、愛に枯渇しやすためかわからないが、もともとの思いの所以はわからないが、教室のいじめっこよろしく、愛するひとを全力で肯定するために、わかっていても「間違ったこと」を言う。愛されたいのかな、と思う。

プレアデスのそれと、ちょっと違うのは、「愛されたい」があるか、どうかだと思う。実は、自己中心的に愛したいのがプレアデスで、自己中心的に愛されたいのがレプタリアン。


どっちもどっちだと思わない?


そんな直感的判断力に優れた夫は、勉強が大嫌いで、教師も嫌い。勉強ができなかったからだ。
そんな論理的思考にすぐれた私は、勉強が大好きで、知的探究心が旺盛。裏切らないしね。


どちらが優れているかって?

どっちもどっちwww