世界を知ること
どんな人も、自分の知りたいことを知っていく人生なんじゃないかな。
知りたいこと自体が人それぞれ違うから、知りたくないことは知らんぷりだし、無関心でいても生きていて困ったりはしない。
でも、自分の知りたかったことが知れたら幸せなのかというと、もしかしたら、そうじゃないかもしれない。
第一次性徴期、第二次性徴期で通過するように、危ういものを通過するものだから。
理想と現実のはざまで、2歳児のように、のたうちまわる気持ちになるのかもしれない。
終わってみて、ああ、こんなものか、と思うことが何回も通過した人は、自分の殻を何回も破った人かもしれない。
満足ゆかないで
なにかのせいにしたり
自分のせいにしたり
問題じゃないようにしたり
そもそもはじめから望んでないかのようにふるまったり
いろんなところを通過して
感情をのせないで
いつも白紙でものを見れたら
楽になれるのに
なかなか、そうはいかないのは
世界と自分の関係を不満なく、自然の摂理のように見れて、
どうしたら自分は満足ゆくのか
そのためにどうしたらいいのか
(世界のなかにいる自分)
見通しを持てる目をもてるまでの水のような心と
その上でさしゆく仏の意を汲めるものだけなんじゃないかなと思う。
(世界を内包する仏)
わがままな子は、それをわかりたくないからなんだろうなあって、思う。
自分の心の王様にはなれるものだけど、
(自分が統治すべきものという意味で)
それとおんなじように世界の王様があるわけじゃないのに、
世界の王様は、献身的に民のために人生を投げ出した、ワタクシのない者であり、智慧を期待されるものなのに
(私利私欲が一塵もあってはならない)
わがままな子は、
成し遂げる智慧を努力なしに欲したり
人生を投げ出す覚悟で取り組むことを知らなかったり
人がやっている努力をひととおりやらないで愚痴を言ってみたり
成功の実績をイメージしないで、ただ現在を頑張ってることで、良しとしてるから、どういうゴールになるのか、見ていてちょっと理解できないときがある。
わがままな子は、
未来の何をイメージしてるんだろうか。