職場で
職場で、視える人に出会ってしまった。
悪霊さん達をよくお持ち帰りして、困っていると聞いた。
仕方がない、話を聞くことにした、として、話を聞いているうちに、自分が話をしていることに気づいて、自分が話したいから話したものを引き寄せるのだとわかったところ、くらいだと話しておられた。
いや、そういう体質なのに、自分への厳しい生活を強いることで、自分を保ってきた、その何年かばかりかに、私は脱帽した。
私に何がついてますか、と言っておられたが、それには答えなかった。
変態の話を幾ばくかしたところで、私のとまらない愚痴じみた話を、心地よいと言っておられた。
なんというか。
天使を知らない20代もいたなかで、神様の調べをわからないままに、必死にたぐろうとしている人に出会って、私は、励まされた。
わからないものは知りたくない、好奇心もない、という方が多いなかで
神様の存在が胸にあることが、
(悪霊を神と間違う方もいるが)
それ自体に、喜びを感じた。
神様という存在が、どんな存在か、を、私達が勝手にイメージしてしまい、結果、魔にエネルギーを与えるように生きてしまうこともある。
(祈りの原理より)
その時期を振り返りながら、自分を変えて行こうとする志なしに、神様のお考えに、自分が知らなかったことを見つける新しい智慧もなしに、
エネルギーを地獄界に供給してしまったことにも気づかないで、私達の反省は、起きえない。
心が変わらなければ、行動や言葉で取り繕っても、いつかは露見する。
変わると決めなければ、ひたすら、その悩みが解決することはない。
でも、知るということは衝撃もある。
自分を知るということも、ひとを知るということも衝撃がある。
受け入れる、ことができないには理由がある。
そこに自己防衛もある。
自分のそれをあきらめるはあるけれど
人をあきらめる、こと、は、天使はしない。