らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

貧乏神

貧乏神は根深いもの、で、どれだけ努力しても、浮かび上がるようにできているのか、、、

 

めっちゃでてくるやんけ笑

 

どんな精進も、パターンは、同じで、まずは自分を豊かな方に変えていき、それから、浮かび上がるあかん方の反省を重ねて、ちょっとずつ、ちょっとずつ、理解を深めながら自分を変えていく。

 

そこから、ものの見方の練り直しで、いろんな場面での判断基準が変わっていき、判断が変われば、自ずと、その後にとる行動も変わっていく。

 

これを自己変革と呼ぶ。

 

そうやって、成功と失敗法則、つまり因果論がわかってくると、人を観察していけば、また、もののとらえ、について変革が起き、自分が他者に与えてきたものに関して、また反省を重ねていくと、また、他者への自分の言動や判断についての判断基準が変わっていき、自ずと、その後にとる行動が、自他ともに自己責任を置いた上で利するように、変わっていく。

 

これも、自己変革と呼ぶ。

 

 

私も少し変わったのか、夫と息子について、なんかおかしいなと思う点を妹らに話したところ

 

ものすごい勢いで、あれはいじめかと思う、かわいそうだ、とのことで

 

やっぱりそうか←

 

ということで、急遽、夫や子に対応した。

 

まず、息子。

 

 

…話し始めてすぐに、いきりたって怒るから、笑えるくらいガッツリだなと思って、腹をくくった、ドライブ2時間。最終的には、納得したので、頑張って、と後は、彼を信じようと思った。

 

私の武器、は、経験である。自分もだし、他人もだし、関心を持って調査してきただけ、かかわってきただけのぶんのデータ根拠がある。

 

そこに三次元的な根拠も加わって、かなり信憑性のあるお話になったようで、

 

以前は、未来の自分に不安しかなかったようだが、今の状況の把握をさせて、息子の強みとなる力を手がかりにして、問題解決に向けてのアドバイスをしてみた。

 

本人の実態に寄り添う、は、最近新たに獲得した態度かもしれない。

 

ばくっと見れば、その貧乏神は、自己中心性であるが、それをそのまま、伝えたとしても、本人に自覚があれば、そもそもに、そんなことはしない。

 

わからないには理由がある。

 

本人の感じ方と、実際に起きている事実が一致しておらず、その上で、本人の無知さ、が、こんがらがって、がんじがらめにしている。

 

 

これを脱するには、俯瞰、という技があるが、そもそもに、意識して無我の境地に入る、ができなければ、まず、無理だと思う。

 

俯瞰、というのは、自分にはない視点を発見することであり、その発見から、さらに、その視点から見たもののとらえ全体を知ること、でもある。

 

 

本人の力の特徴、を分析してあったので、息子の強み、弱みを伝えると、なんか嬉しそうだったのが不思議だった。占いみたいなものだろうか。

 

彼は(長男)、視覚処理が高い。音ゲーだけでなく、モンハンなど、ゲーム全般が好きなだけあって、その力が伸びている。

 

性格的なものもあり、人は好きだが、コミュニケーションから学ぶ語彙には間違いが多用されるので、言語性は低い。次男は、雑学王を目指しており、本が好きなので、言語理解は高い。日常会話をしていても、それはあらわれており、次男の日常会話での語彙は、長男より高い。ゆえに、言葉を用いた論理的思考は、長男は低くなる。

 

目で見たもの、で推考しがちで、言葉だけで、状況を理解することが難しい。言葉で説明された未来の、つまり、知らないこと、を想像する力が低い。

 

だからなのか、第一印象で受け取った感じ方、で全てを思考しがちなので、今回話をする意図を理解できずに、彼は、怒りに支配されやすい。

 

他者はその彼のあふれでた感情に、自ずと自己防衛が働き、互いに理解しあえない、不毛な戦いが起き、果ては決裂する。

 

なので、自分の感じ方と、相手の受け取り方や意図は、人間みんな違うから、自分の感じ方だけで、判断せずに、相手が何を伝えたいのか、それを考えて、判断するように、と事例を踏まえて話をした。

 

具体的に、彼が知っている出来事を話しながら説明した。私がそれをした理由は、上記にある。

 

反応性は長男が高い。感覚過敏なのもあってか。目的物に対するスピード感はあるので、パターン化された行動原理は強い。ただ、複雑な処理には弱い。

 

また、視覚処理にまつわる記憶領域は、程度が高く、具体性をもった印象深い出来事にまつわる判断の話も、長男は高い。忘れない。

 

これが、彼が想像力を用いないで、単に、言葉だけで指示した場合においては、ほぼ、記憶になくなる。

 

記憶領域が高く、論理的思考が低いため、地学や歴史、数的処理や論理的思考を用いない理科、漢字などは、勉強していてもやりやすいと思う。

 

反応性が高いので、人の動き、や、人に対する印象にふりまわされやすい。どうしても、情動的になるのは、このあたりからかもしれない。疲れてしまう、のだ。

 

なので、彼が提示する、自分との付き合い方において、彼が求める勉強環境について、支持した。

 

が、彼が困難さを極める分野が、第一印象と反応処理にまつわって起きているため、苦手であるところを指摘しながら、どうして、それを苦手だがしなければならないかの説明をした上で、どこから取り組めばいいかも伝えた。

 

興味深いことに、その力の特徴は、学力にも反映され、人間関係の持ち方にも反映されていた。

 

つまり、論理的思考、が、極度に主観に支配されており、社会のそれ、と一致していない。まず、論理的思考が成り立たない。

 

それは彼の年齢ぶん、話をしてみてわかったのだが、この世的な力の特徴からくる、困難さは

彼の心に影響していること、がよくわかった。

 

私は、それに気づかないで、心の話ばかりしており、彼の、生きづらさ、に焦点をあて、彼の心に影響する力の特徴を考えもしなかった。

 

まさか、貧乏神は、こうした彼自身を理解しない彼と周囲にあるなんて。

 

心ではなく。力の特徴が与える心、という、丁寧な理解、も要するとは。

 

力の特徴は、どんな人間にもある。だから、発達障害、の特徴は、微々たるものから、どんな人間にもある。

知的障害になるとフラットになるんだとか。

 

 

あまりに極端なそれぞれの力の差がある場合、それは生きづらさになる。その特徴が、本人を苦しめてる場合、発達障害、と呼ばれることになっているのだろう。

 

 

よし、頑張れ。

 

まだ君は支援される側。支援される側、だとわかっていた時期に、よい支援に恵まれずに、怒ることを覚えてしまったかもしれない。家庭が息子に与えた影響もあったかもしれない。

 

貧乏神というだけ、自己責任の法則は働く。

 

もちろん、間違った判断、つまりモデルにした何かが間違っていたこともあるだろう。

 

でも、長いスパンで見たときに、それすらも含めて、因果応報の法則は働く。

 

環境でだいたいのこと、は、何が形成されるか、は、想像はできる。本人に与えた影響から想像は誰にでも易い。事実を理解すれば。

 

まるで、昔見た、のびたとドラえもんの映画にあった、恐竜育成機?ジオラマ?と同じ。

 

何かと何かをかけあわせれば、化学反応式が成り立つように、想像は易い。

 

だが、環境を変えてしまうような、自己変革の力、がある人は、こうしたことに影響はされない。

 

そんな優れた人は稀だし、環境という苦難に打ちかつ勇気とは、自己変革の連続だという発明を信じ続けるのは、それが教えとしてある、信仰による、一途な頑固さでしかない。

 

つまり、めんどくさい、は、貧乏神だ。

 

そもそも、この世なんて、めんどくさいこと、しか、ないじゃないか。その、めんどくさいことに、よくわからないままに、取り組んでみれば、勉強も精進も仕事も、同じことだと分かる。

 

遊び(堕落ではないやつ)も学びである。ゲームだって、ゲームやれない子は、パソコンが難しいのと同じで、必ず、遊びは、勉強につながっている。なにぶんにも中庸。

 

保育園を見ればわかるじゃないか。

 

そのあたりに、絶望だとか不安だとか恐怖がでてくるのが魔、で、そこから来ての、この世的な不具合が貧乏神。

 

観察力に因果応報の法則をかけあわせれば、それはもはや、魔法だ。

 

私は、これが魔法の所以だと思う。

 

そーゆーもんだと思う。

 

霊能力にまつわることは、、光を使わせていただいた上での何か、は、起きることもあるが

 

そもそもに、この世で生まれたなら、見識や知識を増やして判断力が細やかになること(教学を頂点として)から、心の機微にアプローチがかかるものだろうと、つまり、理解する心や生かす心の細やかさになるから

 

信仰の上での

 

容赦ない光の乱舞になると思うのだけど。

 

それが魔法力であって、妖精と交流したり、人がわからないことが直感で分かるとか、怪しすぎてこの上ない。

 

ただ霊能力上の話でしかない、納得のない、理解のない追従は、ただの支配と依存のように思えてならない。

 

これも、また、貧乏神だな。愛じゃないと思う。