試験
大事な試験がもうひとつあって。
私、ベストな状況でないまま、ノー勉で臨みました。結果は、惨憺たるもの。
自信があったけど間違えたもの、そもそも知らなかったから間違えたもの、問題文を読み間違えたもの、ありました。ちょっと悔しい。
維持できるかなあ。(無理
でも、ノー勉だからって、後悔はしていなくて。都度都度、話を聞いていたし、読み返すのが常態のこと、もあった。なので、この状況って、そもそもやり直しが必要だと分かることが大事なんであって、やり直しすること自体、は、なんだか嬉しくなる。
人生最後まで、何回も、新しい自分になることが嬉しいと思ってるから、やり直しは、自然体でシンプルにできる自分になれるまで、やればいいと思っている。つまり、無理しない努力が一番安定した力になると思う。
つまり、忙しかったんだよ。明日も忙しい。
試験の話をしていて、母が、自分がそのとき思ったもの、から、思い出して、考えて回答すると話していて、唖然としてしまった。
思いを大事にする、を間違えていると思ったので指摘した。
そもそもに、湧き上がる思い、は、ほとんど反省が必要なもので、それを真理に照らし合わせて、どうして間違いなのか、を振り返る作業から、真理がどうして幸福に至るかを考えること、が反省作業だと思うし
その反省作業に入る前に
まず、最初に、自分の感じ方や思い方を全部置いといて、理屈立てて知ることが先で
それがパチンとわかったときに、初めて、自分はどうだったかを照らし合わせいく、という流れになる。
だから、まず、素直にそのまま、何も思わないで理解を深めること。読みながら振り返るなら、再読時でもいい。
一度も整理だてて一冊読まないのは、時間が無駄になってしまう。せっかく振り返ったなら、なおのこと。丸ごとそのまま入れなければ。丸ごと入れても、できていなければ忘れるしね。
(これ、知ってるわ、とか、そんなの当たり前しゃないかってなってる状態の方が、危ういと思う。怖いわ。だから、自然体でリラックスして、私は教学したい。
試験を受けながら、ああ、あの人はそうなんだと思って、こういうかかわりかたをしたらいいのかな、なんて、改めて、気づくのも、私は嬉しい。
気付きは、どれだけあっても足りないと思う。
解決策のヒントだからね。)
なぜ、それが幸福に至るのか、当たり前だと思うこと、についても、その根拠が、わかりやすくかつ、論説をするのに、同じパターンで文字化されている(説法されている)ので、整理しやすく構成されていることは
整理し直しをしている人からしたら、美しい文章であることに気づくはず。
最後に、一番、正思が難しいのに、そもそもに、思いを大事にすることの意味を間違えてないか、と伝えた。間違った思いにこだわったり、大事にすることで、実態や実際を冷静に与して、判断を誤ってないか、
振り返るべき思いがほとんどなのに
反省の上での、都度都度の発展の意思と方向、判断を思いを起点にしたら
思いこそを振り返る作業が、私は10割だと思うんだけど
不幸になる考え方の維持をしてないかって
思いを振り返る基準という真理はどこにあるのか?ってまず思う。
そもそもに、その思いや判断で10年先も通用するわけがないし
思いや判断は、自分が変わっていけば変わっていくし
そのための反省なんだと思うんです。
ええ、反省が、私は好きです。
なぜかというと、新しくなれるし、発見がたくさんあるからです。
反省が嫌いな人は、たぶん。
弱者とか未熟な人を、いじめてるからだと思うよ。反省して、未熟さを認めたら、いじめられる側になるから、無意識に守ってるんだと思う。
未熟さを自己防衛に使うひともいるけど、それは怠け者だと思う。
変わってなんぼ、だと、私は思う。
だって、つまらないじゃん。変わらないで、同じ課題の繰り返しなんて。