肩の痛み
琵琶湖に泊まりに行った。久しぶりにお世話や研修なし、に、ただ、泊まるというやつ。金曜、土曜。
肩の痛みが…翌朝なくなっていた。
肩を怒らせるという言葉をトイレで見た。私は、怒っていること、が肩に出るなら、なるほどと思っていた。
人の怒りは頭で受けるので、頭かと思っていたが、自分の、悪のない、苛立ちについては、自我力でどうにか状況を良くしなければならないと思うように肩の力が入るのかもしれない。
息子や男連中の状況を見ては、または、さまざまな話をよそで聞いては
なんでそうなるんや
という怒りは良く出る。話しても通じない、つまり、まだ、わからない実態にある人に、怒りが出ることが多い。
そのたびに、自分の理解や見識が優れるからか、自分が間違っているのか、いろいろ考えるのだが、自分と同じベースで見るからだとは思う。
それぞれに役割があって、その役割を演じてあり、私の役割に必要なこと、を必ずしも、人には必要ないこと、もある。
息子の、芸能への関心、に納得しながら、コイツには学力的な知性は確かに必要ないなとは思う。
そして、旦那も、首の痛みがなくなったと言っていた。
このあたりは、祈願をしているわけではない。より祈願は濃く指導あるものとして見るわけで、精舎禅定は、やはり、精進だと思う。なんにせよ、すべては、
小さな反省と光の補充
を霊的な光をいただいた上で、何かの気づきを受け入れるものだ、と私は思う。
小さな反省が必要な、何かしらの、自分の心の理解を要する、つまり、気づきという、
霊的な光を受けとるのに障害となる壁
がある場合、祈願は実現しないのは確かなことである。そのため、その壁を打ち砕くために、心と行動の両側面の、ゆるやかな変革、が大事と思う。
肩は、やはり歪んでいるので
(負の蓄積
そちらも対処しながら、わかったことについて、また、思慧する必要がありそうだ。
人の精進を自我力でどうにかしようとしない、だ。