経典
経典はちゃんと統合させて、理解しよう。
全部の経典は、話者が同一、である限りは、同じ意味合いに定義づけられた言葉、で表現されているので
主がお話になるところでも、部分だけで、理解してしまうと
自分に都合がよい解釈で理解するにとどまってしまう。
だから、判断は一時的なものはしたとしても、それに固執してしまうと、抜け落ちた観点すら分からないまま続いてしまう。
だから、全ての経典の表記、をも内包できる結論、を目指していくものだと思う。
一過性のある特化した修行時には、バランス比重をマネージメントして、自律して行っているため
他者が他者を、その側面だけとって、おかしいと言うことは、あまり意味がないことだと思われる。
悪、への考え方については、経典の全てを統合していくと、昨日の記事の主張にならざるを得ないが
平面的に、あるものさしのみ、で、測ると、あの記事にあるような、意味、にはなれない。
けど、太陽の法、から、何から何まで、しっかり、その与えられた定義を汲むとするなら
ああいう多次元構造になってある、としか言いようがない。
多次元構造を自分のなかに見ながら、
そとから見た自分は、多次元構造のひとつぶ、であるとも認識するのは
ちょっと難しいかもしれないけど
そとから見た多次元構造のひとつぶ、としてとらえて見るなら、昨日の記事、だね。
それは、自分が正義になることはない、という表明であるが、悪でもないというね
まるで、禅問答だけど
だから、大乗船という救済の手立て、もあって、大乗船の一部の自分は、大乗船の歯車でしかない、のであった。
歯車になれたら、素晴らしいんだけどね。
最近、こういう話ばっか、してる。