らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

伝道について

伝道って、すごいことなんだよ、ってよく聞く。そんなにすごいこと、なのだろうか。

 

伝道、を、三帰誓願においたら、すごいことだよな、と思う。いろいろな視点があるだろうけど、私は、たぶん、変な視点から、そう思う。つまり、視える世界から、そう思う。まあ、あんまり言わない。

 

伝道って、仏弟子の使命、ってよく言われる。

 

でも、三帰誓願だけを、伝道って、私は感じない。

 

こう、なんていうか。

 

仏とのパイプ貫通というよりかは、三帰は、仏とのパイプ形成なのである。

 

パイプが貫通して、エネルギーが流れる、は、信解脱と呼ばれるような明らかな試し、を通過した後、である。これを通過した人は、魂の中心に仏が座ったような感じになる。

 

パイプ貫通。貫通まで見届ける、は、導き手としては、とても、怖い時期を通過する。我が子を崖から突き落とす虎、のような感じ、か。不安と恐怖を拭いながら、ただ待つ。

 

パイプが貫通しても、なんだかんだぎゃあぎゃあ言いながら、積極的に苦集滅道ができて、修行のノウハウ、が自分なりにでてくるまで、やはり数年かかるように思う。

 

手間暇と言ってはならないが、ものすごい、時間をかける。子育てに近い。そう、子育てに近いんだよ。

 

まあ、そのあたりを置いておきながら

 

 

この光のエネルギーの授受、は、伝道場面で必ず発生している。導き手から相手に、外側から。導き手からしたら、仏と貫通したパイプから光を流してるわけだけど、相手は、外側から受けとる。

 

(溶かす感じ

 

じゃあ、光の授受(仏→自分→人)が伝道だっていうなら、自分の精進に他ならないし、現実場面での、伝道という方法だけが、伝道になりうるわけじゃないと私は思うんだよね。

 

もっと言うと、突発的な現実場面での伝道行為は、その、伝道という事象レベルで、光の授受が決まったら成ると思っている。

 

でも、その光の授受のレベルが濃い、薄い、は、どうやって決まるか、というと、自分の精進を高めて質量を増やすことはもちろんできるけど、実は、その要素だけではないんだ。

 

しかも、信仰面だけではなくて、人を信じる面で、交互に精進が直面化されると私は感じるのだが、どちらの質量もバランスよく問われると思うのだ。

 

このあたりは、思慧作業と修慧までを繰り返し、仏へと、人へと、交互に回数を増やして鍛錬を必要とする。

 

パイプの太さや頑丈さ、が、仏にも、人にも両方ともに発生していて、かつ、自分は、無色透明でなければ、光を透過できない。

 

この修行を、どうやれって、伝道から始めるのは難しいと思う。

 

どうしてかというと、まず、導こうとする相手の理解を超えて話した時点で、人と自分のパイプは消えてしまう。しかも、それは、心での理解、だ。

 

パイプなしの強引なかけひきで勝っただけのもの、は、私の経験上では、その後、どうにもからない。

 

光がたしかに与えられると、仏と相手の親和性は高くなるし、教えの理解もたしかにすすむ。教えについては、やまと言葉で、目の前に起きている具体的なこと、が題材になるだろう。

 

そうやって、霊的なものが先で、現実は後から必ず、形にするようにゆっくりと盤石に、幸福を。

 

 

でも。

 

相手が分かる言葉で、相手との交流を行うなかで、相手が認識できる光、を、執着に絶対にならない向きの愛の心で、

 

知らないことを聞かされる相手の感情に深く感謝しながら

 

自分の心の感じだけを頼りに、仏の愛に近い、自分の無い、ただ、相手を愛おしいという気持ちを100%全面に出ること、からだと思う。

 

この自分の透過性については、四苦八苦すべきだと思う。そう簡単なものじゃないと思う。けど、やってみなければわからないとも思う。

 

自分の傷つきをすべて捨てるような感じで、相手からの反発や攻撃も愛すると決める感じだと思う。悲しみに近い愛、のような気もする。

 

それは、ひとりで心の作業として、まず行い、その心の行いから、

 

仏へ誓うというよりかは、まず、仏の光を人にお渡しする伝達係を拝命いただけるように、お願いをし、お赦しをいただかねばならないと私は思う。

 

私がやるぞ!というよりかは、どちらかというと、やらせていただく、その拝命に恥じない自分になれるようご指導いただくことの方が言葉が適切なような感じは、私は、する。

 

でも、やるぞ!と気合いを入れる方がしっくり来る人は体育会系なのかもしれない。天狗だとか、そっちのパワフル系。

 

私は、仙女なので、引きこもり系。

 

 

拝命のタイミングは自然に任せる。それは、つまり、仏に任せるに違いなくて、そのタイミングを見極めることの方が、よほど重要に思う。

 

自分の都合を優先して、その大事なタイミングを逃し、手綱を何度手放したことだろう。完璧にはできないも、後悔はたくさんある。

 

相手にはこのタイミングだったと思うときほど、自分が何か別のことで自分の人生を優先してしまった、つまり、人とのパイプを塞いでしまった自覚はよくある。

 

つまり、自分に余裕のない、在り方が問題だった。スケジュールは、今でもパンパンだ。

 

 

タイミングは大事なんだ。神様が目の前にわざわざ運んでくださるのだから、やれば、必ず決まる。なのに決まらないのは、何か、自分に、相手へのこだわりがあるからだと私は思う。

 

相手が受け取れる質であるか、を考えたとき

 

 

それは、心からの顔施を、常態でされているか、から、伝道は始めるものだと思う。

 

しかも、人を選んではならないとも思う。どんな人にも与えながら生きてるか、を思えば、精進は果てしないはずだ。

 

 

光を与える、というとおこがましすぎる。そもそも、光は私が作ったわけではない。

 

祈願や研修、セミナー、自分の精進を通して、仏が与えてくださった光を、

 

(与えられ方を知らない)人にわけていくこと、わけながら生きること、を信じることから

 

伝道ははじまるもの、と私は思うよ。だから、必ず、仏から光を与えられる自分の精進は基本なんだよ。

 

 

もちろん、そういう自分になりたいんだと仏に伝えることから始まる。

 

ただ、これをやるからお手伝いして欲しいは、必ずお願いするのだけど、お手伝いを期待してはならないのは確か。期待した時点で、指導は入らない。

 

指導は、菩薩と同じように

 

目の前にある方の苦しみを救う

または

目の前にある方の幸福をより幸福にする

 

に100%集中することが条件だし、そのやり方は基本的に、アドリブ、であるべき。

 

あちらはなまものだし。

 

アドリブがきくような自分づくり、の、精進も、やりながら、かな。

 

そう、やる、のは、いつでも、自分、なんだ。

 

 

それにしても、人を癒すときなどは、自分がいただいた光がほとんどなくなるときもあるから、そのあたりは、補充を必要とするもの、だと思う。精舎で寝込むと補充される。

 

(身体に光が滞留している、シャボン玉状に。それがほとんどなくなることはある。貞子級の家系を呪う悪霊を天上界に上げるのに、なくなったことがある。エクストラにはなかったやり方。人にも同様。光がなくなると疲労感がひどい)

 

 

まあ、何が言いたかったかというと

 

仏の光のポストマンは常日頃からやるものだって思うよ。

(相手を満足させだけの執着を増大させるは、ナシね

 

三帰って、その積み重ねだと思うよ。もちろん、養成も。じゃなきゃ、相手は理解しないでしょ。

 

だから、今目の前にある人に、どれだけ光をお渡しできたか、の自己作りで

 

どーもやはり友達にはなれん

 

という性格の合わない人には、なかなか尽くせなくて、そちら側の傾向の方が頑張ってくださるといいなあとか思う。

 

まあ、つまり、精進が伝道だと思うんだわ。ああ、それが言いたかったんだ笑

 

私の導いた方には、そのようにお話をさせていただいているし、そのうちいろんな精進を重ねていけば、自ずと、自然に、導き手となるときが必ず来ている。

 

三帰という式を迎えるときに、彼らは、自分の精進がものをいうことを、自分の今までの体験で、よく分かるはずだ。

 

それまでの精進の集大成を、伝道で味わうのだから。