らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

避けて通れない

怖いものって、避けてればいいか、って、私は思わない。

 

怖がらなくていい自分が成立しなければ、怖いものは怖いままだと思う。

 

もちろん、考える必要のないものもある。要は、臭いものに蓋をするのは、考えないと、後が大変だよね。

 

自分の人生を肯定したいだけなのは、ちょっと違うと思う。よりよくなるには、自分がよりよくしたいことのために、何かは否定する、つまり、捨てたり、やめたり、しないとならない。

 

その幅が大きいとき、人は、ちょっと困ったことになる。

 

霊的には魔だよね。

 

なんにも根拠を練らないで、否定するのをやめてしまえば、それは魔だよね。

 

でも、いじめられて、素晴らしい自分を見失って、自分はだめだって惰性に言い続けるのも、魔なんだよね。

 

バランスが大事だと思う。

 

素晴らしい自分も、改善する自分も、両方とも、あるもの、だから、素晴らしい自分を確認してから、反省点は探すといいよ。

 

反省点が見つからないときは、本当は、ただしく見れていないし、素晴らしい自分が見つからないときも、本当はただしく見れていない。

 

 

愚行録とか悪人とか、見れたのも、まあ、嫌な気分だっだけどね。あんな風に、悪を悪らしく描いてあれば、誰でも悪だと分かるけど、

 

かわいそう

 

とか、同情をもってしまうような状況だとちょっとひきづりこまれちゃうよねえ。

 

あの中での光明を考えることとか、幸せになるために何をしたらいいかとか、なんでそうなったのかを考えるために見るんだ。うまく描かれてる。

 

私は、ジョーカーを見ていろいろ考えてしまった。

 

誰が悪いのかとか、何が起きていたのか、とか。どうしたらよかったのか、とか。

 

◯相手の立場をよく理解して、状況を把握すること

 

◯自分や人が本当に何を欲してるのかを考えること

 

◯暴力を受けたら、癒されるように努めること

 

◯自分とひととに通じる快適さを考えること

 

◯悲観しすぎないで親切をしてくださった方を認識すること

 

◯自分の心を大事にすること

 

◯怯えすぎないこと

 

それすらもわからないときは、静かにしていること。

 

 

昔、悪魔祓いをして、なぜか、寝てたら、夜中に、山村静子って、聞こえてね。貞子の原エピソードだけど、不思議なことに、ホラー映画は、恐怖感を与えるだけの動画にしか見れなくなった。

 

怖がってる人の恐怖がうつらなくなった。

 

まあ、そんな感じで、怖いものは、あんまりなくなってきて。無知な人間が一番怖いなあとも思うけど、でも、それも怖くなくなってきた。

 

自然に施す教育ほど、素晴らしいものはない。

 

だから、ジョーカーみたいなものに負けない。ジョーカーの幸福な未来を、私は信じる。

 

自分の道は、ジョーカーとともに生きることではないけど、ジョーカーの未来を信じることは、確かにできる。

 

なぜかって言うと

 

そのために、永遠の生命と、この世はあるのだから。

 

と言う結論のために、私は、あの、みじめったらしい破壊思想がなんなのかを見定める必要があって、避けて通れなかったんだと思う。

 

そういうふうにできてるのだから仕方ない。だって、いやでも目につくんだもの。

 

あのみじめったらしい、ドブネズミの匂い、は、いじめられ過ぎて、いじめられるを愛だと勘違いした、いわば、よくある、ゆるす、を知らない、生かすも知らない、法のない、無法地帯の結論だからね。