はらわたがにえくりかえる
そんな気持ちに一瞬にしてなった今。
眠れないなあ。
それにしても、背中のあたりから、かーってなんかでてるような、ピンピンの縦軸の何か。
怒ってるときに放出される目に見えない何か。
なんだろうなあ。
あんまり、怒ったり、傷ついたりしても周りに一切悟られることがないんだけど。
(すぐ顔に出るとは言われるんだけど、本当の腹の気持ちは全く読めないようだ)
ま、このケンシローみたいなオーラが出る時は、何かがあるときだけどさ。
いよいよ、好きなことを追求して、孤高の人生を歩みたくなった。
いつも踏み止まるんだけど、もうそろそろ視野に入れていいなって思える。
いろんなことがわかったしね。
おばあちゃんみたいだねって
久しぶりの友人と話をしてて、話のネタがなくなってしまって。
ネタがないわけじゃなくて、思うことや話したいことがとりわけあるわけじゃなくて。
肉体的にも精神的にも疲れてるんだなって。何より睡眠力がかなり低迷していて、起きた瞬間疲れてる。
肉体のメンテナンスに奔走したけど、結局、悪性の病気はなく、年齢的なものなのかなと思う。何やってもあまり効果は見られず、なんとなく無理をしていることがわかった。一昨年、昨年新しいことがたくさんあって、緊張が高かったのだ。
精神的な負担があると、身体が緊張してめまいがするのもわかった。
こういうとき、霊障と心因性のものとで、どう区分けをつけるのかって話だけど
心因性のものが軽くて一過性のものなら、霊障までのレベルには至らないけど、
心因性を引き起こした原因が重かったり、
継続期間が長かったりすると
心の針も下を向いて、下と繋がって、霊障として憑くことができるポイントにしっかりしがみつくものがあるのだろうと思う。
年齢を経て。
いろんなことを知って。
あの世のことを知って、この世のことを再度見直してみると。
仕方ないことってたくさんあるなあと思う。何よりも、現実の環境の不遇さから、満たされないで憑いてしまうことがほとんどじゃないかって。
でも、その不遇さをどう改善していくか、が、自分自身というより福祉の充実さに委ねられているこの世を見て。
あまり、効果的ではない、と感じる。
もうすこし、福祉のチカラが、その人ら自身の何かしらの教育体制を帯びてこなければ。現状は、福祉の財源を喰らう教育をしてしまっているのではないかなと思う。
本当の福祉は、向上心に応える支援である方がよいのではないか、と思う。
70代のパートタイマーを見たり、
はたまた、私の両親のように、死を迎える私の祖母という高齢者介護と私達世帯の世話をするアラセブン。
めちゃくちゃ頑張っている。
車に乗ってるときに、アニオタの息子が、ウンチクを話してる時に
大事なものを失ってしまってからは遅いことが分かるアニメ
というもののくだりでキレてしまった。怒りは身体の重さを軽くするのはなぜだろう。
「大事なものを失わないように、自分の好きなことに時間をかけないで、大事なものを大事にするために時間をかけてきてる人がどれだけいると思うのか。
好きなことばかりやってる人もいるし、
好きなことはやめても大事にするために必要なことがわからない人もいるし
大事にする方法もわからない人もたくさんいる。
アニメを見ていてそれが分かるわけがないだろ」
とBBAらしいコメントをしたが、腹を立てなかった息子は優秀。
…身体が軽くなるためにはどうしたら笑?
あけましておめでとうございます
あけましておめでとうございます
皆様にとって素晴らしい一年でありますように
難しくしちゃった
わかったことを表現するとき、やっぱり、難しくなってしまう。旦那に言わせれば、そもそも難しい話をしてるからだ、と言う。
いい嫁だね
心強いね
アドバイスもらえるからいいね
などと、法友から声かけられるが、本人は「一緒に生活してみろ、とんでもないぞ」と声を荒げて笑う。
ああ、また、難しい。。。
、、、ギリギリなのだろう笑
この旦那が菩薩になるまで付き合う、みたいな誓願を切実にご本尊にしたとき、寝ようとして布団に入るまで3分以内に聞こえたのがルシフェルだった。
全身全霊の誓願は疲れるので、そんな大物の名前を聞いても、そぞろに布団に入ったのだが、布団のなかで、はて?となり、ぎゃーとパニックになった。
なので、何回も味わったためルシフェルとはどんなものか、なんとなく分かるようになった。
ちなみに、私達がエル・カンターレと共に闘う、は、エル・カンターレが闘うのと同じだが、その理屈はあちらも同じ。だから、勝てるし、だから、大物と闘うわけだ。
大人になれないということ
昔、まだ霊能力のコントロールとか知識が安定してなくて、どういうふうに視たら何が視えるかが分からなかった頃、よく、その人自身の心の実態のイメージを視てた。
妹の心を視たときは、切り株に生えているジメジメしたきのこだったり、また板の上に乗った、腐った魚群で動く生態の魚だったり。
たぶん、心理学で投影法を学んだこともあって、そういう思考遊びを繰り返して、開拓したのだと思う。
開拓済みなのか、心の点検によるそれかは分からないが、イメージで実態を解明する手法が、私というバイアスを通した偏ったもの、にはなっていなかったように今でも思える。
さて、切り株に生えたきのこは何を表すかというと寄生。腐った魚は、群れの中でしか生きられない思考を持たないものが、群れから出たときにどうしたらいいかわからず、鬱蒼とする様。
どちらも似たようなものだ。
妹は、よくよく成長し、ようやくそれを脱した気もする。社会的に見ても、人格や判断、考え方としても、じゅうぶんなほどに、変貌を遂げたと思う。
辞職する予定なので、労働者の同僚や上司らのために、労働環境を改善するために意見を提出したいとのことで、何か意見はないかと話を聞かれたそうな。
妹はその話を聞いて、残念だなって思ったそうな。
以前に職場の研修で、労働環境を整えるために四苦八苦して頑張られた方が成功した話を動画で見た。TEDでも取り上げられた。
そのTED の英語プレゼンを見て、私が一番最初に思ったのが、「この人は幸福の科学の信者だろうか」であった。ポイントが、幸福の科学の教えで構成されていたからだった。
逆かもしれないが、見る人が見れば、その主張がすべて仏法だと分かるはずだ。
私達信者は、幸福の科学の映画から仏法を学ぶ。あれは、エンタメ映画ではないので、教えをどれだけピックアップできるかが、自分の智慧の確認になるし、気持ちが乗れるかに自分の点検が入る。
そのためのもの、なのだ。
その方の動画はまるで、その映画を見ているようだった。
そのTED動画を私のグループチャットで紹介したことをとって、比較研究をして、この要素が足りない、この動機がこうだ、道のりにはこれでつまづく、と話した。
妹の友人が言うよウニ改善するにはどうしたらいいかを妹に聞いたら、またしっかりとした返答がかえってきた。
「青年部で息子を頼む」と話題を変えて、その話を終了した。
きのこや腐った魚から見事な変貌を遂げた。
見ていたイメージに、少女や少年(5歳児)だった方が何人かいらっしゃる。少年を視たときに、悪魔を感じたので、私はその少年自体が悪魔だと思った。なので、一生懸命に救済に努めたものだ。
だけど、今なら分かる。あのとき、感じた悪魔ルシフェルは、私に来ていたものだ。ルシフェルは人間に仕えることを嫌がり、神に叛旗を翻した。その意味が、ようやく分かる。
自分の潜在意識にタッチできる子が、夢で、殺人鬼と少女の夢を見た。長らく、それがどういうことかわからなかった。その夢自体、何年にも前に遡る。
殺人鬼が少女をいじめてくるので、少女がまわりに支援をされながらも、なんとか、殺人鬼に勝つ、という夢だった。まわりは、当たり障りのないことばかりで、何もしてくれないが、少女の気持ちを支援していた、だったと思う。(確認しないと詳細はわからない。)
勝った場面が特徴的で、勝った少女は殺人鬼に勝った時点で殺人鬼になり、殺人鬼は少女に変貌した。
少女は殺人鬼になり、殺人鬼は少女となり、また、ループした世界になる。
まるで、仏法が言う執着の話ではないか。囚われとは、そういうことである。悟り無くしては、やった、やられたの現実を生きるしかない。だから、我々は、囚われに気づき成長することを目指し、精進している。
それが現実に現象化していることを認められても、悟り得て、悟りを実践してできるようになるまでリテイクが現実に起きる。
知識を持つことを聞慧、どういうことかのケース研究を思慧、智慧を得て実践してできるようになるまでを修慧と呼ぶ。
「殺人鬼と少女は同じもので、殺人鬼はただ、打ち負かしたもの、少女は打ち負かされたもの。
少女は殺人鬼に自分の姿を見ているとは思っていない。
殺人鬼は少女から見て、自分が殺人鬼になってるとは思っていない。
外から見たら、どちらも、見た目は大人なのに、心や振る舞いが幼いこどもで、砂場での遊びを、社会で広げているだけ。
未熟なものが未熟なもの同士で、お互いの未熟さを理解しないで、相手が自分より優位にあると思いこんで、自分を傷つけてくると信じている状態。
だから、勝てば自ずと殺人鬼になり、負ければ少女となる。」
ある子とある子に同じ質のことが起き、私にもおそらく起きていただろうと思う。
これは、大人になりきれない人の心であり、宗教でいうところの、純粋さや純朴さではない。正当とは言えない要求を、自分が不遇だとして社会に訴える心の実相である。
それを見抜いて育てることができなかった私に、ルシフェルのエネルギーが被ってくるのは、当然の由である。