らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

鬼滅の刃2

・蜘蛛の話
 土蜘蛛ですかね。土蜘蛛に関してはググりましょう。こうした歴史的知識は、調べることは大事だと思います。私はあまり賢くないので、名称を覚えることが難しいです。正式名称なんかはどうでもよくて、背景を重要視します。むしろ、通じることもあるので、覚えることを避けます。それでも、やっつけたときは、頭に名前が鳴り響くので、調べると吐き気がするようなこともあります。

(マニアックな話ですね、魔は負けると本当に名前を言って去ります。ただ、そういうときは、魔を認識しておらず、思考がぐるぐると回っていて、いろんなことを考えてなにかを判断するときです。仏から見て正しい方を選ぶというよりは、本心でどうしようかをしっかり見つめて、心で決めたときです。なので、名前が頭に鳴り響いたときは、フリーズします。怖くて。どこかで、まだこうした世界が嘘のように感じることもあるので。)

土蜘蛛は、平安時代に朝廷や幕府に反旗を翻した土豪集団だったかな。

(まあ、アニメ版に蜘蛛の敵がいたから、それかなとも思いますが。でも鬼の正体のひとつがそれだという情報は私にとって有益です。鬼、いますし見ますから。)

それらが、その背景で、その立場で「どんな思いをもっていたか」が重要なんですよね。その思いに通じると、自分も「土蜘蛛」現代版になっていきますよね。

はい。それが自分にとっていいかどうかだと思います。

「土蜘蛛」になりたくない!!って思っても、まぁ、これらがどういう思いの塊かを理解して、自分にないか点検しなければ、同通するのは当たり前なんでね、えらそうにこういうのがあれでね!みたいに言い回るのが「知る」ってことではないんですよ。自分の心にそれがないか点検した上で、こうした「メインストリームになりえなかった自分」が不遇な状況になったときに解決する手立てを仏法真理的に智慧としてもてないのならば、「知る」に能わずだと私は思います。

じゃあ、私は智慧を得ているかと言うと、研鑽している最中です。ただ、現代版現象化する鬼(修羅がついている人間)を観察しながら、自分も入った時期等をフィードバックしながら、冷静に、その心理構造を調査しています。こうしたことは「深度」があるので、やりきれていることはありえないと思いますし、深めて「解決する手段」のバラエティや濃さを得ることが重要です。いつも、同じ手立てを問われるわけないですし。奇跡のことのときに、そんなもったいない時間を過ごすのは、やめたほうがいいと私は思います。常に考えること。

鬼ね、鬼。あれは、視ると、腹のそこからきゅっと恐怖でガクブルになりますよ。あんまり書くと繋がりますから、書きません。耳付近のトラブルは夜叉系なので、蛇もまざります。四肢や背中、肩のあたりですと、修羅系です。腰は餓鬼。

私の研究や調査によると、鬼系はヒケンがいいです。蛇系は、主に仏陀霊示系、千手観音系もいいと思います。「悪魔祓い」ではありません。地獄霊であって、魔ではないからです。

ただ、地獄霊を祓ったあとは、魔と対峙することになる(智慧を得る前に仏に赦しをこう瞬間ですよね、三宝にひれ伏す瞬間)ので、悪魔祓いを主としていくもいいかもしれません。ただ、精進の具合だと思うので、まだはじめたばかりのひとは、「悪魔祓い」より教学が必要かなと思います。思慧するまでの手がかりがないでしょ?

…映画版鬼滅は見ていないのでどのシーンがどれに通じる?なんてことは判断できないし、アニメ版にあったかというと、そういう目で見ていないので判断できないけど、これよりか、ずっと、中国の「レザレクション」とかのがやばいと思いますよ。まじで。画皮がつくのはよいことだ、みたいな。不幸な画皮を救ってやるみたいな印象すらある「レザレクション」。

悪魔が指導する映画っていうのは、あの世で不幸に通じることが、あたかも「幸福」のように見えるものだと思うんですよ。その「偽の幸福」を肯定するからこそ、あの世で不幸になるような、つまり地獄に通じるような生き方になるわけですよね?

鬼滅に、土蜘蛛に通じる箇所ありましたかな?

あの世界はむしろ、「誰にも幸福な世界」がないことが問題であって、「自分たちだけが不遇な環境になっている恨み」はないんじゃないかな?

土蜘蛛ね、土蜘蛛。信じられないんだよね、きっと。

だから、背中に、吹き矢のようにしびれ毒を吹き込むんだよね(もちろん霊的に)

2,3年前から、背中や肩が痛くて困っているのが加齢なのかと思っていたけど、やはりそれだけじゃないんだろうなと思うことがありまして。

毒のようなものが体にまわって動けなくなる現象があった、はじまりは、5年前かな。お経CD爆音にしたら、痛みで倒れた体が動くようになった(マジの話)。アパートから実家に戻るとき、こんなところにどうやって住めというのかと気が狂いそうになったあのとき、実家は魔の巣窟みたいになっていた。実家に足を踏み入れて2分も立たず、痛みで倒れた。本当にどうやって私のような人間が生活できるだろうか、涙が出た。家族の誰も理解はできなかったし、世界中でも、私の友人2人以外はわからなかったと思う。(どうやってきれいにしたかはまた今度。)

職場もトップ4が変わってから、魔の巣窟になりまして、良い研究資料、被験者がたくさんありまして。その中にいる私に起きることや反省ももちろん、いい資料ですよ、おほほほほ。

こうやって、知るんですよ〜
本当に実践なんですねえ〜〜
やばいですよ〜〜

ちゃんとやると、現象化して、ちゃああああんと、魔の表出から幸福へと展開していきますから。

霊的にも調査して
(友人複数に霊視をお願いする、もちろん、会議的にではなくて、個々に意見を求める)

経典で裏をとって
(ワード検索するためにキンドルにしました。足りない場合は、調べてもらいます。嫌がられますけどね。いや、必要なんでやってもらわないと困ります。)

反省して
(当たり前ですが、いるだけで幸福へと展開させれていないってことは、わかっていない状況なんですよね。だから、反省するし、足りない知識があるなら、教学する。自分の判断が迷っていない、)

心の点検をして反省すると視点が変わるので行動が変わりますよね。

…この過程で攻撃に合うことはあるんですけど、普通の人は見抜けないと思います。日常ではよくあることです。「怒り」とか「絶望」とかのわかりやすい状況だと判断しやすいんですけどね。それこそ、一般人なんでね。潜在意識にあるそれを抜くときは、表面意識に「怒り」と「絶望」を認めることは難しいんですよ。

変化を嫌う、新しいことをチャレンジしない、物忘れがひどい、自分とひととの違いが理解できない、尊重できない、ひとの幸福から学ぼうとしない、祝福しない、ひとの立場にたって考える、自分は正しいと思ってひとと対応している、ひとの主張にふりまわされる

しかも、寝ている間に、侵入してくるのが通例というか、普通のパターンで、その状況を甘んじて受けながら、己の心の稚拙さに悔し涙を流しては、自分を受け入れています。私の守護霊は、本当に本当によくやってくれているなと思います。

まぁ、そんなこんなで、霊的な鬼に土蜘蛛的なやつもいるし、もっと怖いことしてくるよ、普通にそこらへんにいるし、この世ってそういうところなんだよ、修行してるんだから当たり前だし、と思います。

この世が美しい、だとか、素晴らしいとか、感じられることと、それはまったく別のことで、反省しているときや自分が得ていない智慧下のところでは、怖いもんがうじゃうじゃしているものなんです。

光が当たる前はゴキブリだらけの潜在意識で、奇跡の今だから、その潜在意識に光をあてることができる稀な時代なわけで、いままであてるように修行できたか?という問いにイエスという方がいたら、

私はあほかと言いたい。


それをきれいにして、自分に反省どころがわかって、感謝があふれて、喜びに満ちるような現象を展開させれて、ユートピア実現ではないですか?

なので、土蜘蛛のあたりのそれと、鬼滅のそれは基本的には、関係ないですね。
むしろ、自分の精進を問うものだと思います。