らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

鬼滅の刃

なんだか、あちらこちらで「鬼滅の刃」の話題が出ています。なかには、「鬼の研究」のご法話にまつわって、意味不明なお話をされている方もいらして、私はなんだかなと思います。霊言でお話になられることに関して、おそらくは、霊的世界を熟知されない方がほとんどで、ご自身の理解の範疇で論を展開されているのだろうなと思われること、多々です。

多くの友人も辟易しておりまして、私も話を聞くばかりではありましたが、あまりにも物議をかもしており、不満をもつ友人へ、私見を表しようかと思いここに記します。

・疑似想念世界は作られるのか?
 ひとは想いを強くもつと念いになり、あの世と呼ばれる次元層で一定の「なにか」を創出することができます。霊力に関係すると思われますが、安倍晴明なんかは「ヒトガタ」ですか?、そういうものを依り代にして作ったんじゃなかろうかと思いますが、信じることで簡単に霊的な傀儡を作ることができます。それが現実に霊的な影響を与えることもできます。簡単に。

それを「神様が幸福になるような」いいことに使えば、みんなが豊かになりますが、ネガティヴな思いや志のもとに作られれば、作り手も含めて不幸になります。

付喪神なんかもその類の一種です。昨今、妖怪や神様ごとの漫画にも、時々出てきますが、「信じなくなること」でそれらはあの世での存在を失います。フェアリーテイルゴッドマザーが歯の妖精になるのも、その思想のもとのお話です。そして、それは真実です。

ですから、神様や天使などいないと信じる方が増えれば、あの世にはそれらが存在しなくなるかというとそうではなくて、あの世の神様や天使がこの世に干渉することが困難になるという事象になります。

天使や神様は実在しているのに対して、これらは「生きている人間が信じているから創出されたもの」にしか過ぎません。そして、それは、この世で作られた創造物があの世に干渉することにほかなりません。

ディズニーワールドは、あの世にもあるんですよ。どんな世界かというと、ディズニーランドそのものですが、ディズニーランド的な地球、が存在しているんです。地球というか、あまりにも広いので、ディズニーランドというよりは、地球と表現しました。

(瞑想だとか禅定で見に行くことができます)

で、「鬼滅の刃」はとても人気です。「鬼滅の刃」を知らない人は稀でしょう。そして、多くの人がこの世界観を愛していますし、キャラクターを愛していますし、なりきることさえあります。

それがディズニーの創造物と同じレベルに達するならば、あの世に擬似的霊界ができるのは当たり前なんです。

さて、その疑似霊界というものは何語なのかというと、私が行った「あの世ディズニーランド」は英語でした。私は英語と日本語を理解できるので、英語のままで聞き取ることもできますし、日本語に翻訳した形で聞くこともできます。「心」を通じて理解するので、英語を日本語に翻訳した形で受け取ることもできます。それ以外の言語だと時間はかかりますが、受け取れます。あまりにも難しい言語や、あまりにも文化が違っていたり、時代がかけはなれていると理解できずに「音」で受け取ります。「音」で受け取る場合は、ほぼ翻訳はできないです。

トラッシュミーと叫び狂った飛び跳ねるゴミ箱を見ました。ジンと戦うアラジンの魔法の絨毯にも乗りました。私は、ディズニーファンでもなんでもありません。なので、見たときはびっくりしました。ただわかったのは、「遊び」を通して学ばせるを信条とした世界であるのは確かでした。

僕に捨てて!僕に捨てて!と狂い叫ぶゴミ箱に、ゴミを投げ込むと、ファンタスティックと電光がチカチカとお祭り騒ぎに飛び跳ねて、「なんて君はすばらしいんだ!」と褒め称える。おもしろいから、何度もゴミ箱にゴミを投げ入れる。ゲーム感覚で、生活習慣を学ぶ世界がそこにありました。

アラジンとカーペットに乗ると、「怖いかい?あんなのへっちゃらさ!!さあ!勇気を出して!!」
と悪いものへ立ち向かう友人と勇気を体験する世界がそこにありました。

では、多くの一般人が見る「鬼滅の刃」が作る世界が、子どもたちや大人に教える世界とは何でしょうか?その体験を通して、「無意識レベル」で学ぶものはなんでしょうか?

鬼滅の刃の世界設定そのものに問題があるので、鬼滅の世界設定のなかでキャラクターの選択や行動を論じることには限界があるので、キャラクターの選択や想い、行動を論じることに意味はないと考えます。あの世界設定では、「家族や愛するものを救うには、憎しむべき負の原因たる人物をやっつける、こらしめる、殺す」という思想にしかなりえない。なので、それを最良な形で主人公は治めていくので、愛すべきキャラクターになっています。

つまり、世界設定そのもの、に問題があるのです。そんな「不幸」で「みじめ」な世界に、私達は生きていない。創造物であったとしても、前述のように「疑似世界」はあの世にでてきますし、それと同じ世界にこの世になることはありえませんが、「憎しむべき問題を起こすひとは排除されるべき」という思想に通じた人間が増えることがでてきます。

ディズニーやマーベルに比して、目標達成までの「ネガティヴなシーンに「人への感情」を描く時間が長すぎる。ひとや出来事が介在していても、己の弱さを克服するが葛藤の中心ではないところに問題を感じる。結論、葛藤を抱えたままの「キャラクター」ができあがり、とても日本らしいとは言える。日本は、情緒の文化だからね。

だけど、それは、正義を謳う「いじめ」のはじまりです。

また、シナリオ等をお勉強した私から見て、シナリオ構造はとてもよくできています。与えたい印象や流れがぶつぎりのところも多少垣間見れますが、読み手をお話に誘うための私の知るスキルがすべて使われています。キャクターも素晴らしいです。

何が言いたいかというと、情緒を描いた作品なんで、話に主張がそもそもないもの、だということです。とても日本的な作品だと思います。が、キャクターが象徴するエネルギーはなにか?と言われると、少し怖いことになるのは、わかりますか?

それを崇拝すればするほど、そのキャラクターに似てくる、のは当然です。いいとこどり、は難しく、影を落とした部分もまるごと、模するようになります。

それは、現実的にコスプレイヤーだということではなくて、疑似霊界ができれば、あの世的なディズニーワールドがあるように、あちらから「ご指導」いただくことになります。寝ている間に、無意識レベルで、ご指導いただくことになります。乗り越えられなかった影の部分が基調になるのは、確かだと思われます。

だって、そういう作品ではありませんか。愛せば愛するほどに、私達の人生もそうなるでしょう。

悲劇や不幸を乗り越えるまで死闘を繰り広げる作品ですから。

つづく