らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

キュウビ

以下はWIKIPEDIAより

 

「京都伏見稲荷大社

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、京都府京都市伏見区深草にある神社式内社名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社

旧称は「稲荷神社」。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。全国に約3万社あるといわれる[1]稲荷神社の総本社である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)[2]。現存する旧社家は大西家。

 

京都盆地東山三十六峰最南端の霊峰稲荷山の西麓に鎮座する稲荷信仰の御本社。その信仰は稲荷山の三つの峰を神そのものとして崇拝したことを源流とする[3]。初め農耕の神として祀られ、のちに殖産興業の性格が加わって衆庶の篤い信仰を受けた。神が稲荷山に降り立ったという縁起から、2月の初午の日は古来より多くの参拝者で賑わう。清少納言が自らの稲荷詣を『枕草子』に記すほか、『蜻蛉日記』『今昔物語集』など古典にもしばしば登場する[4]平安時代東寺(=教王護国寺)の造営にあたって鎮守社となるや、真言密教と結び付いてその信仰を拡大[5]、次第に神位を高めて『延喜式名神大社に列し、天慶5年(942年)に正一位の極位を得た。この間、延喜8年(908年)に左大臣藤原時平が三箇社を修営(『年中行事秘抄』)、その後源頼朝足利義教らが社殿の造営、修造に関わったが、応仁の乱にてすべて焼亡。乱後、社僧による勧進の下で再建が始まり、明応8年(1499年)に至って遷宮を迎えた[6]。近世まではこれら勧進僧たちが稲荷信仰の普及や稲荷講の結成に大きく関与した[7]という。

 

明治政府神仏分離令によって、本願所[注 1]のほか境内の仏堂がすべて廃寺となる一方、崇敬者による鳥居の奉納や私的な「お塚」の建立が稲荷山中で顕著化し、現在の伏見稲荷大社を特徴づけるものとなった。稲荷祭の最終日に東寺の僧侶らが東門(慶賀門)の前に供物を並べ、還幸する下社の神輿に読経をあげる儀式があり、古くから続く両社寺の深い関係を今に伝えている。

 

祭神は以下の五柱。これらの神々は稲荷大神の広大な神徳の神名化とされている[9][注 2]

主祭神である[10]宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年(1499年)に本殿に合祀された左右の摂社田中大神・四大神とともに、五柱の神を一宇相殿(一つの社殿に合祀する形)に祀っている[9]

 

「イナリ」の縁起としては『山城国風土記』にあったとされる秦伊侶具のものが有名である。この秦氏について、もともと山城国紀伊郡深草近辺に在住していたことが見え(「秦大津父」『日本書紀』欽明紀)、また、秦氏賀茂神社との関連や、秦氏和銅年間に稲荷社の社家となったことを伝えている。社伝には、当時に全国的な天候不順で作物の不順が続いたが、勅使を名山大川に遣し祈請すると加護があって山背国の稲荷山に大神を祀ると、五穀が稔って国が富んだ[12]、とも伝えている。

 

上述の『山城国風土記』に見られるように、「イナリ」の表記はもともと「伊奈利」の字が当てられていたが[13]、『類聚国史』にある淳和天皇の天長4年(827年)正月辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた[9]。以降、『延喜式神名帳』には「山城国紀伊郡 稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、名神大社に列し月次新甞の幣帛を受けた。

 

秦氏

秦氏(はたうじ・はたし)は、「秦」をの名とする氏族東漢氏などと並び有力な渡来系氏族である。新撰姓氏録』によれば始皇帝の末裔にあたる民族で応神14年(283年)に百済から日本帰化した弓月君(融通王)などが祖とされる。[4]。朝廷の設立や土地の開拓などに深く携わった氏族であり、その勢力は8世紀9世紀に更に拡大されたと云われている(明らかにされていない点も多く以下の諸説などがある)[

 

始皇帝

秦の公子であった父の「異人」[24]休戦協定人質としてへ送られていた[3]。ただ、父の異人は公子とはいえ、秦の太子[25]である祖父の安国君(異人の父。後の孝文王。曾祖父の昭襄王の次男)にとって20人以上の子の一人に過ぎず、またであった異人の生母の夏姫は祖父からの寵愛を失って久しく二人の後ろ盾となる人物も居なかった。

秦王を継ぐ可能性がほとんどない異人は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで秦どころか趙でも立場を悪くし、いつ殺されてもおかしくない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた[26]

そこでの裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。安国君の正室ながら子を産んでいなかった華陽夫人に大金を投じて工作活動を行い、また異人へも交際費を出資し評判を高めた[11]。異人は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、呂不韋の妾(趙姫[3] を気に入って譲り受けた異人は、昭襄王48年(前259年)の冬に男児を授かった。「政」とを名付けられたこの赤子は秦ではなく趙の首都邯鄲で生まれたため「趙政」とも呼ばれた[注 2][27]。後に始皇帝となる

 

(…まぁ、つまり、父は、公子である異人ではなく、商人である呂不韋の子かもしれないってこと。始皇帝の末裔は、詐称者を父にした子孫かもしれないってこと。)

 

「反論」

漢時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は異人の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を異人に与えた際にはすでに妊娠していたという[3][28][29]後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている[30]

始皇帝非嫡子であるという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている[13]呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じるという[31]。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲルも、「作り話であり、呂不韋始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた[32]

 

(いいこともしたんだけどね。)

 

「九尾が憑依したひと 妲己

有蘇氏の娘として生まれた。『国語』では、帝辛が有蘇氏を討った際に有蘇氏が献上したのが妲己であり、己が姓、妲はであるとしている(この頃女性は字を先に、姓を後に書く風習があった)。妲己を字と見なすのは後世の誤解である。

基本史料である『史記』殷本紀[1]では、妲己は帝辛に寵愛され、帝辛は彼女のいうことなら何でも聞いたという。師涓に新淫の声・北鄙の舞・靡靡の楽を作らせた。賦税を厚くして鹿台に銭をたくわえ、鉅橋に粟を満たし、狗馬・奇物を収めて宮室いっぱいにした。沙丘の苑台を拡張して、野獣蜚鳥をその中に置いた。鬼神をあなどり、沙丘に大勢の者を集めて楽しみ戯れた。酒をそそいで池とし、肉を掛けて林とし(酒池肉林)、男女を裸にして互いに追いかけさせ、長夜の飲をなした。

その後、妲己によって攻められた際に武王により殺されたとされる。

 

「狐 楊貴妃

楊 貴妃(よう きひ、719年6月22日開元7年6月1日) - 756年7月15日至徳元載(元年)6月14日))は、中国代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。世界三大美人の一人で古代中国四大美人西施王昭君貂蝉楊貴妃)の一人とされる。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。また、才知があり琵琶を始めとした音楽舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。

嫉妬により玄宗の意に逆らい、楊銛の屋敷に送り届けられた。しかし玄宗はその日のうちに機嫌が悪くなり、側近をむちで叩き始めるほどであった。この時、高力士はとりなして楊家に贈り物を届けてきたため、楊貴妃は太華公主の家を通じて夜間に後宮に戻ってきた。玄宗楊貴妃が戻りその罪をわびる姿に喜び、多くの芸人をよんだと伝えられる。それ以後さらに玄宗の寵愛を独占するようになった。その後、范陽・平盧節度使安禄山の請願により、安禄山を養子にして玄宗より先に拝礼を受けた逸話や、安禄山と彼女の一族が義兄弟姉妹になった話が残っている。

 

750年(天宝9載)にまた玄宗の機嫌を損ね、宮中を出され屋敷まで送り返される(『楊太真外伝』によると、楊貴妃が寧王の笛を使って吹いたからと伝えられる)。しかし吉温楊国忠と相談の上で取りなしの上奏を行い、楊貴妃も髪の毛を切って玄宗に贈った。玄宗はこれを見て驚き、高力士に楊貴妃を呼び返させた。『楊太真外伝』によると、それ以降さらに愛情は深まったとされる。

 

(貴妃になってからの記述を読むだけで、ちょっと意味不なことが多い)

 

そもそもにもともと宇宙世にまつわった傾向というものがあるだろうけど。

 

レプタリアンは妲己

プレアデスは楊貴妃という狐へ

 

ここの波長同通を無意識層のところから抜くことと

今世にあらわれているその箇所を抜くこと

 

(抜くとは、思想を整理だててて善悪を判断し反省し改善すること)

 

稲荷神社は各地域にあるし、観光地として、または、心の拠り所や祈念所として生活に溶け込んであるけれども、稲荷系神社がもたらす果報は、どうなのかな…心配だな、って思う。

 

まさかなぁと思うのだけれど、縁がついているために、狐が憑依しているひとは反省にも入れないんだもの。狐って化けるから、霊視でもわかりにくいしね。

 

そういや、ゴリ子も騙されたよね。11月頃に、K君がファルコンみたいな白い犬みたいなやつがいるって言ってくれたのも、白竜だと思っていたけれど、あれは、狐だと思う。そう、FOBが6尾って言っていたやつね。男狐。

 

なるほどなって思う。ファルコンは、龍のくせに体温があるようなもふもふ感があるでしょう?ネバーエンディングストーリー大好きだから、ファルコンいい!!って考えもしなかったけど。アクセスもしてないのもよかったかどうかわからん。

 

でも、こうなってみると、やっぱり、霊能者なら霊能者なりに、ちゃんと把握したほうがいい気もする。なかったことにして向き合わないのは、心の反省に影響でてしまうものね。

 

霊視して見立てるとき、一番わかりやすいのは、耳とかもふもふ感だと想う。それを隠すようにして視せてくる。

 

そう、霊視ってさ、、、仏からみたら狐は狐なように、隠すことはできないんだけど、相手は積極的に化ける、ことは可能なんだよ。その化けの皮を剥がすのはね、光を当てれば一発なんだけどさ、そういうこと、毎日するわけにもいかないでしょう?

 

ああいたわね、くらいなんだけど、やっぱり、ちょっとちゃんとしたほうが、自分の反省にもいいわねぇと思う。光を当てるを最初からやれば良いんだけど、来てるやつに関心がもてないのもいかがなものか、なのかもしれないなぁ。

 

でもね、その前に、私は、生きている人間なのよww