偽神という存在
伝道者さんからいろんな霊的なことをミラクルなやり方でいろいろ教わることが多かった私は、「大黒天と弁才天」は相性がいいことや、天部は菩薩とは違って、ちょっとちゃらんぽらんだから、菩薩とは合わない等もなんとなくわかってきた。
菩薩は、学級委員。責任のしかかる所長。
天部は、班長。お気楽な中間管理職。
そんなイメージだろうか。あるとき、「ダキニ」とはなにかと伝道者さんに聞かれて、それは「荼吉尼天」のことではないかと言ったことがあった。私はインターネットというツールを使って、いろんな神様のことを調べはじめていて、ある程度の神様の名前を把握していた。
ギリシャ神話については、小学生時にはまって、いろんなギリシャ神話を読み漁っていた。天使や女神、という存在がとても嬉しくって読んでいたが、母は、ギリシャ神話をほしいというと、怪訝なかおをして購入を渋った。母はあまり学がなくて、そのような知識を手に入れたら、キリスト教信者になってしまうのではないか、と心配した。
ただ、たんに、「キリスト教信者になったら、おかしいひとになる」みたいな田舎育ちの発想そのものだったと思う。今や、母がすでにwwとは思うけど。
まぁ、そんなこんなで、図書館のおかげで、小学生のときから、ノアの存在も知っていたし、アブラハムも知っていたし、息子を神に捧げようとしたひとも知っているし、ナルキッソスも知っていた。一番怖かったのは、ゼウスの嫁、ヘラだった。ヘラの復讐心は、子どもながらにこわかった。アラクネを蜘蛛にしちゃったりとかね。
というわけで、このように、ギリシャ神話から旧約聖書まで小学生うちからだいたいのことは好きで読んでいて知っていた私は、過去世で、そちらの宗教を学んでいたに違いなかった。
日本の本は神様ごとの本があまりにも少ない。妖怪の本はたくさんあるんだけどね。だから、小学生の頃は、もっぱら、日本ジャンルでは妖怪本。もとになっているネタ本は、日本霊異記とか、柳田國男のやつとかじゃないかな。
で、「読み物」として読んでいた私が、本当に「神様」というエネルギーで存在しているのならば、おかしい、と思うことがあった。
冒頭にも話をしているが、荼吉尼天という存在。大黒天の亜種だと書かれている。
自然の摂理、調和で、エネルギーとして司っている、というならば、納得できることはある。冥府への番人とかさ。閻魔様だとか。仏法への犯罪者を世話する魂、なら、閻魔様はめっちゃ法に厳しいひとの魂だと思う。そんな感じ。
でも。ひとを導くほうの神さまで、あきらかにひとに対して、おかしいんじゃないかなって側面を持つものがある。バアル信仰なんかは、当時は神様だと奉られていた。でも明らかにそれはおかしいよ、って預言者エリヤと戦って負けたことがギリシャ神話には書かれている。
ハトホルやセクメトもそう。古代エジプト神話の愛と美の神。
大黒天の一部に、荼吉尼天という亜種がいるのと同じで、同一の宗教観のなかで、同じものを司る神が存在するのは違和感がある。違った宗教観なら、先の記事にあるように、違った神の名前になるのは、たしかにそうだろうなと思う。
米がRICEと名称を変えるのと同じだから。
だけど、コメ科の植物のなかに、並列して、どれがどうなのかわからない混在した植物があるのはおかしいと思うんだ。
荼吉尼天に至っては、狐に乗った天狗、の像容になる。
まぁ、そんなこんなで、当時は神様だと奉られていたもの、が、あとから邪神だと明らかにされることは、歴史上、まま、ある。