らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

研修に行きました

週末、夫の研修についていったのだけれども、なんだか、私のためにあるような内容で、神仕組みなこの感じは、いつも、身につまされて言葉が出ないのですが、反抗期真っ最中の私は、やはり、ほのかな怒りを背中にうっすら燃やしました。

どのあたりが、私のためかというと、発表者の背景が私と同じだったからです。英語教師、心理学の点でおなじ。まるで、お前が受けるんだぞ、と言われているよう。

確かに、中学校のとき職場体験に行った私は、社長さんへの質問タイムで、どうやって社訓を決めたのかを聞いたら、君は経営者になれるね、と言われたりもした。

子育て時に、あまり余るほどの時間が変速的に与えられるので、本をむさぼるように読んだ。いろんなジャンルの本を読んだので、そのなかに経営の本もあった。ひとを動かす、を読んだのもこの時期である。



目から鱗とはまさにこのことで、「言葉」はコミュニケーションツールの側面とそうでない側面があると思っていた私は、言葉以外の伝達方法をこの本から学んだ。それでも、今も、「言葉」が好きな私は、言葉に傾倒しやすい。

(プレアデスは言葉の力が特徴だとも思う。7番。)

マクドナルドは不動産業だって知ってた?そういう話を勉強しながら、関心をもってしまった私は、経営も、うすっぺらくお勉強をした。営業だとか、プレゼンとか、マーケティングだとか。時間を無駄にしたくないという思いだった。

主人と結婚したのも、「経営」がしたいひと、だったからなので、もともと、その毛色は私にあったのかもしれない。主人よりも私のほうが本気だったので、私のほうが知識も意欲もスタンスも旺盛だったのだろうと、ふりかえって思う。が、私自身は堅実に向いたのだった。

でも、研修は巷でいうところの、経営学をするわけではない。

発表者とスペックが似ていた、ので、私の自己紹介は、とても分野が近いので親近感がわきます、という内容であった。いろんなひとがいるセミナーなので、ひとつ、自己紹介とってみても、浮き立つ。自己紹介では、覚えてもらいやすい特徴を言うほうがいいのだが、夫よりも目立ってしまった。夫は、人見知りで恥ずかしがり屋でもある。ひとからどう見られるかを気にしやすいタイプなのだが、私はかえって、ひとから見て何を印象に残したいか、で考える。

さすが、プレゼンターw職業病だわ。


さておき、その前日の瞑想では「大役があるから」などと言われて憤慨をしていた。大役…。私は、就職活動について悩んでいて、資格をとるために大学に編入をも考えていて、やりたいこと×2と抱き合わせて、こういう未来がいいな、努力しようかな、と頑張ろうかな、うまくいくかな、綱渡りだけどお願いね、という気持ちでいたのだが、先方の答えは、「大役があるから楽しみにしていてね」なのであった。

そこで私は怒った。大役とはなにか、と聞いた。教えられないらしい。問答をした。

「あなたに愛が芽生えれば与えられる」

…愛ってなんだ。確かに、私は、支部で、情熱がでてこない理由のひとつに、愛が足りないのだと思うと伝えた。愛とは湧き出てくるもので、つくるものでもないし、感じるものでもない。ふと、きづいたら、そこにあるものだったりする。

愛が芽生えたら…って、芽生えなきゃ与えられないってことか。今、私は余裕がないのに、そんな愛とか流暢にいってられるわけない。その上、「大役」をいただきたいわけでもない。神様ごとのお役は素晴らしいのよ、と言われても、生きるのに四苦八苦しているこの状況のなかで、つまり、自分のこともままならないうちに、ひとに必死になって、自滅するのは、「愛」じゃないと私は思う。

が、神様の愛は。実は、「自分のこともままならないときでも」ひとのために尽くしなさい、だ。

で、やってみると、ひとのために尽くしていたのに、自分のこともまま、なっていた、もっと言えば、ひとのことしかしていないのに、なぜか理想が手に入った、なのである。そう、視点が、「ひとのため」か「自分のこと」であるかのどちらかにありながら、やってることは同じだから、そうなる。

思いとして、どの視点で生きればいいのか、なのだ。幸福であるのは、ひとの幸福を考える心だから、そうしていればだいたい幸福になる。でも、基本ベースとして、「自立しているか」は大切な観点で、それこそ、「神様のせい」にはできないので、その「ひとのためにやっていること」にも、責任が伴う。していること自体が、本当にそのひとのためになっているか、どうか、という点でもある。そのひと自身が幸福になるために、手を差し伸べても、そのひと自身の人生を奪ってはならないのだから。

わかっていても、怒りが先立つ。この上、何をしろと…

そして、自分の話したいことを延々と話すひとにつかまって、私は恐ろしくなった。また、このひとの話は博識のように見えて、とても稚拙だった。私にはたいして関心のない分野ではあったが、そんな私でも、話の主張が根底から間違っていること、明らかにできる。自分の好きな人がいかに正しくて優れていたかを主張したかったのだろうが、根拠が論理的でない上に、全体的な状況の把握も枯渇していた。ので、震える声で指摘してみたが、話にならなかった。

ので、退散した。私は、おそろしいほど「探究心がある」のだそうだ。そう言って、私をなぐさめてくれたK君だった。どうやって論文調査をするのか、と聞かれたので、サイニーとエビスコを紹介した。近隣では蔵書数の少ない大学図書館しか知らないので、数回しか行っていない。心理学はだいたい英語圏の論文も読むのだが、有料検索エンジンを使ったと思う。最近は、もっぱらamazon。専門書しか有益な情報は載っていないから、三次資料なんかは読み方と読む目的は変えるべきだとも言った。

大学の編入だって、実は資格だけではなくて、最近の心理学の動向から、また専門書を読む、知る、考えることを想像したら嬉しくなってしまったからでもあった。ステータスいらんだろ、と言われたが、ステータスのために、編入するやつなんかいないと思う。ステータスはそもそもなんのためにあるのだろうか。

私ほどの地位もない、収入もそれほど高くはないものにとって、こんなことがステータスになるとは思えない。ただの自己満である。あ、ステータスは自己満か。

で、そこまで来て、「知識の鬼」の自分を想った。醜いわけでもない。ただ、生きにくいのは確かだった。「私の言っていることがわからない」と言われることは多い。私はそれに慣れてしまって、理解されることをとうの昔にあきらめてしまった。結論から入るからなのかもしれない。ぐるっと2時間話をして、一番最初に私が言ったことに結論づいたとしても、私はそうだっただろ、なんて指摘したりはしない。でも、ふと、気づいたとき、その自分とは、マイナーに位置していることをようやく悟った。

「やってみなくてもわかる」ことが多かった。「やってみても実験データにしかなりえない結果」も、実は計算されつくしていて、その計算上に可能性が乗らない場合、早々に撤退する。だから、最初からダメ元だな、という結果について、いちいち、へこたれたりしない。可能性があるほうがドギマギする。危機管理も悪くないと思う。

で、その私が、宗教世界にありがちな「綱渡りな状況」に身を浸すことほど、ストレスが高いものはない。(周囲からすると、綱渡りでもなんでもない。)

常に勝者でいる場所にいたい。安心だもの。でもね、そこは、神様の方向にあるのよ…(遠い目)


さておき、私は「知識の鬼」だけれども、それによって、「知識の足りないもの」に付きあうことに疲れてしまっていた。それを育てるのに、10回言っても、本人が実践してできるようになるまでは、「わからないもの」だからだ。そして、できるようになるまでは、私のように「怖がってやりたがらない」。何回も言うより、さらさらと流して聞いてやればいいのだ。でも、指示待ちくんだと、指示がなくなったことや、褒められることがなくなって、「鬱」っぽくなる。間違っていることをあたかも正しいように主張するひとや、指摘されても頭おかしいんじゃないの、という視線にも疲れてしまった。

なので、口をつぐむことにした。


なのに、また、つきつけられている。(そういうものだ。)

さすがに、私に問題があるのだなと感じるのだが、それでも、わかってしまったことがあった。頭のいいひとと話をすることのストレスフリーを。私の職場には、頭がいいひとが多い。なので、語彙レベルが高いし、説明しなくても、私の意図を汲んで話がとおる。むしろ、私が指導されるくらいで、その指導も穏やかで優しい。頭を使う仕事なので、心理的ストレスは減らしたほうがミスは減る、のは確かでもある。こうしたある圏域での常識が、私のもともとにあるところと同じなのだった。

心理学部卒だからだろうな、とも思う。教育学部とはまた、違うのだ。教育職に染まりきれなかった自分は、そもそものアイデンティティが心理学部卒特有のものだったのだな、とわかったのは、心理学部卒の人間に囲まれてからだった。その頭の良さは、「論理的思考」の分野であって、もちろん、ランダムな数字を扱ったり、プログラミングをしてみたりの頭の良さではない。


夜中にアイスを食べようとしたが、また出くわすと嫌だったので、主人についてきてもらった。私が嫌な思いをしたというだけで、主人は悪態をついた。それを見ながら、まるで、教室のいじめだな、と想った。すごく迷惑ではあったのだけれども、自分の過去はそんなことをしたことがないとは言いづらかった。それに、ひとが変われば、「与えられた」かもしれない。私は自分の身を守るのに必死で、「付き合いたくなかった」のであった。

翌朝、その方の姿を見たけれど、なんだか申し訳なく想った。

過去に出会った、少し似ている顔のひとを思い出して、そのひとの辛い人生を考えてもいた。そんなふうにしているうちに、その方たちの、なんだか「小学生」みたいな態度に、小学生からやり直しをするように、愛情が必要なひとなんだなとも想った。小学生で正常な愛情をかけられなかったこととか、与えられなかった落ち着いた環境を考えたとき、申し訳ないと心から想った。

無邪気な小学生が声をかけてきた、だけだったんだと思った。

肉の目で見ていると、相手は確かに老いていて、自分より年上だったり、自分と同じくらいで、できることはいっぱしの成人ができることばかりなので、すべてフルオープンにする必要などないが、そうだった、そうだったと思い出した。ああ、そうだった、心とはそういうものだった、と。

それから研修を受けて、私はまた怒ってしまったのだった。何に怒ったかは、「知識の鬼」が怒れることを想像したらいいと思う。

休憩時間に発表者に声をかけられて、お話をさせていただいた上に、ライン交換までしてしまった。こんなブログだが、私が営業してもいいなら、その会社のすばらしいところをいくつも言えるが、許可をとってないから言わない。が、奥様の軌跡はこころにぐっと来たので伝える。

○自分のしたいことではないのに、ご主人がやっているというだけでつきあったところ
○経済的に見通しがつかなかくても、やめなかったところ
○そんな状況で信仰を選び続けたところ

そうやって感心しつづけたところ、本当は世界伝道がしたかったのよ、と言われた。英語話者なら、一度は考える世界伝道。なので、コロナ騒動でWEB展開を余儀なくされている今、世界はZOOMなどのオンライン在宅ワークが定着してきたので、今やっている事業をそのまま海外向けに作り直して発信しませんか?と助言してみた。(えらそうに)

そしたら、頭の中で計算がはじまったようで、いい結果になるといいなぁと思うのでした。

そして、ふと思うのです。この方も、また、ひとのことを助けづづけていたからこそ、最良な理想をてにいれはじめるのだと。

もし、この方が最初から世界伝道のために、英語を武器にして伝道していたらどうだったでしょうか。それよりも、今やっている事業をもとに、真理に基づいた経営理念、提供物をもとに、精進を重ねて重ねて重ね磨き抜いた素晴らしいものを、英語で提供するほうが、この方にとって、一番「理想の自分」の完成形だったと思うんですよ。

回り道が一番の近道だったんですよ。


そういうふうにできている世界なんですよ。


そんな私がひいた一転語「乗り越えられない壁は何一つない」

奇しくも、「祈願者自身にあった指導を受けれるのが祈願なんです」とも聞いた。私は、少し安心をしていた。祈願後の指導霊との会話では、なんだか、中堅層っぽい男性の太い声で聞こえた。

「就職先はもう決まっているから案ずるな」らしい。
「大役も来るができるから案ずるな」らしい。
「無駄なことはやらなくていい」らしい。

(大学編入はたぶん無駄なことなんだろう。やりたいのにな。)

私の、回り道をして得られる最短距離って、なんだろうかね。

ただ、余裕がなくなるとひとの本性とは明らかになるもので、私は一番に愛を捨てやすいことがわかった。皆様はどうだろうか?

貴方が一番しんどかったときに、一番最初に捨てたものは何だっただろうか?
それは、きっと、捨てても捨てなくても、本当はよかったかもしれないよ。

神様はこんなふうに仕組んでくるのだから。