らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

昨日起きたこと2

夜、「眠らなければならない気がする」と夫が言った後、すぐにいびきをかきはじめた。朝はやく出かける夫は、体力勝負なので、そりゃあそうだと思った。

でも、ちょっとおかしいなと思ったのは、夫の体に触れたときである。夫の体は、光がぴんぴんに入った後のような状態になっていて、例えば、三帰式に訪れる光の乱舞に幼児が一心に浴びたときのような状態になっていた。アルファ波優位なのに、テンションが高い、みたいな感じ。穏やかな幸福感というよりも、こどもの笑い声に包まれるようなちょっと動きのある感じ。

(感じ、という表現が多いのは申し訳ない。それしか表現できる言葉を持たない。もし、あるとすれば、真空妙有の波動とか?)

ゲームアプリを閉じた後、なんだろうかと思い、夫の顔を見た。一度だけ、夫の魂の兄弟のひとりと会話したことがある。そのひとりと、顔がそっくりだった。…つまり、彼がそこにいる、ということだ。

魂の兄弟は、経典のとおり、5体いる。そして、本体である私達とそれぞれの5体はつながっている。

私の研究によると、この5体はバラバラに動いていて、互いに認識したり協同したりしない。協同という状態に入るには、この魂の兄弟と本体である自分がつながっている状態が前提になる。本体の自分の意識体を通じて、協同体制に入るのではないか、という見解を持っている。経典もいくつかの記載をまとめあげるとそのような見解であったと思う。まだバラバラに動いている状態は、精進の過程として、有る。

で、その魂の兄弟を三宝帰依させる祈願と聞いたのが、福徳増進祈願である。ただし、誰からかというと信者さんなので、つまり、総裁のお言葉ではないので、真偽はわからない。

私の研究によると、福徳増進祈願の内容文は、黄金版八正道である。6次元アラカンである修行徳目が自己の研鑽にあたる八正道にたいして、福徳増進の修行徳目は、利他を含んだ八正道となる、と考える。うまくできているもので、八正道の2つをかけあわせて、八徳目の1つ、みたいな折り込み方なんじゃないかなと思ったまま、成功してはいないので、推論として提示するに留める。

つまり、六波羅蜜をも付したそこまでいって、魂の兄弟は全員稼働するのだと思われる。まぁ、当たり前か。

魂の兄弟とつながるためには、生きている人間を導くときと同じで、魂の兄弟がもつ個性が、エル・カンターレを頂点とした三宝帰依をするのに蓋となる執着を、本体が喝破し、打ち抜き、帰依を誘うことができるほどの、精進が求められる。

つまり、塩水10%の水と水が混じり合うとき、あちらから流れてくる塩がまじり込んでしまったら、帰依にはなりえないので、こちらが塩を濾過するほどの悟りを得てはじめて、あちらの塩水を真水に変えることができるのである。

それをもって、魂の兄弟と一体となって、天使の仕事ができるというもの。また、潜在意識を通して、魂の兄弟とつながっているので、これに必要になってくる悟り、とは、自分の潜在意識にある執着を知り、反省し、帰依を深めるという作業である。

つまり、外にあると思っているものは、実は内にあって、内なる自己を研鑽するだけで十分であると言える。彼らが転生して出会ったことのないエル・カンターレに帰依することができる可能性は、本体である私達の転生と精進に、責任がかかっている。

夢でプレアデスだと言われた私は、早くにプレアデスというルーツをもつ魂の執着を見つけていた。プレアデスだと認める魂にでてくる共通してある悪行は、いやというほど、同じだからである。私だって、ラムちゃんみたいな格好した魂の兄弟っぽいやつに悩まされた。あれは、そもそも魂の兄弟なのか、わからないけど、ね。風俗の星だと言ったら、目を丸くした方もいたけど。プレアデスは、メンヘラ風俗嬢という印象がある。肉食獣ではないほうね。そんな強い気迫を私達は気性として持てない。むしろ、劣等感が強くて、愛されたくてそうなる。

ラムちゃんは単なる無知だった。

ときに、指導霊か守護霊かの別ができない状態で、守護霊瞑想で話をすることがある。男の人と話すこともあれば、女性の場合もある。主たる守護霊はやはり、次に転生する魂なのか、主監督というかんじがある。マネジャーかな?

私の守護霊は芸術系の魂なので、それ以外のことに関しては、でてこない。宗教的な話もできるようだが、あまり言葉を使わない。それも、芸術家だからかだろうか。

夫の魂の兄弟は、ギガンテスのような巨体の人がひとりいて、この人もまったく話をしようとしない。その様子は、うちの守護霊とすごく似ている。だが、ギガンテスは、芸術家だからではないようだ。

私は、幾度となく、起こりうる負の現れに対して、個々の精進によるもの、だと認めながらも、これは私の潜在意識が汚いからだと思ってもいた。もし、潜在意識がきれいな状態であるならば、目の前にある人間のすべては、あるだけで祓うことができると信じていたし、実際、そうだと思われる出来事も体験してきたからだった。そこにどちらかに優劣があるわけでもない。ただ、約束はそうだったと思っている。

周囲の愚行に辟易しながらも、己の怠慢に怒りを沸き起こしながらも、家を精舎の磁場にすべく、掃除に努めていたとき。貧乏神というか、悪霊がついている状態のひとは、悪霊がしがみついているので、無意識に悪霊にとって環境がよい状態にしたがる。生活に必要のないものを買い込んだり、捨てられなかったりする。捨てられないそれは、もったいないだとか、まだ使えるという気持ちになるからであるが、戦時中などの貧しい時期を過ごした幽霊さんの癖のようなものだと思う。

ものを捨てられないのは、未来を信じていない、にも通じる。

私自身も捨てられないことが多かったけれど、それでも、両親のそれもすごかった。粗大ごみはどれだけでも出た。みかんを包む赤いネットも溜め込んであったし、いらないものや余計なもの、使わないものが八割を占めていた。よく生活をしているなと思う。で、捨てると悪霊がついているひとが、もれなく怒り出す。きっかけは何でもいいと言った感じ。捨てることを邪魔できればそれでいいのだと思う。

誰かが怒っているその主張に正義などない。
ただ、気分を害したに過ぎない。
正義と思われるその主張は、10年後を見据えて主張ではなく、たいていのところ、現在を見据えたときの暫定的な状況改善として妥当ではない、などと言った様態なのだ。

で、廊下を磨いていた私は、疲れてしまって、倒れ込んでしまったのだった。情けなくて悲しくて悔しかった。ひしめく邪気と悪霊に罵詈雑言を浴びながら掃除をするというものは、とても大変なことである。そうした家庭の現実的なあらわれは、「家族の愚行をあげつらいながらせせら笑う」「どれだけだめで惨めな人間かを言いながら笑い合う」「嘲り笑う」である。それが異常だとは、本人たちは気づいていない。そして、今、家族にその時期の家庭の動画を見せても、「覚えていない」と言うだろう。

その状態に対して指摘するほうも怒れてくる。なぜ、家族をいじめるのかを説いても、なぜ愛しているのがわからないのか?愛している自分を否定するのか、といったふうにキレるのである。

そう、まさに、家族は、神様に対して宗教を支持しないと腹を立てた私と同じ状態なのだ。

わかってはいても、どうしたらいいかわからないで、掃除をしながら、悔しくて果てた私は、横たわりながら泣いた。きっと、私がどれだけ反省しても、私の心が犯した罪によるものだから、うまくいくかわからないなと思い、きっと約束していたのだろうなと思いながら、夫に申し訳なくて泣いた。きっと、私が夫を導くと言って生まれたはずなのに、私のせいで、こんなことになったのだろうと。

自分の潜在意識を知れば知るほど、そうとしか思えなかった。私の潜在意識は、貞子のように打ちひしがれた絶望の塊だったし、ひとを信じるよりもひとの不幸に泣き崩れるような意識体がたくさんあった。それが翻ると、バルキリのような戦闘神になり、ジハードに向かうイスラム教徒よろしく自己破滅的な犠牲を投じる傾向があった。

申し訳なくて申し訳なくて。ギガンテスの守護霊は私と口をきいたことがない。夫の父は、亡くなった後、私に「恨むよ」と言って消えた。私だって、怒れた。私にどうしろっていうんだ、じゃあ、どうしたらよかったのか、言ってみろ、そんなふうに泣いた。だから、夫の周囲には嫌われて仕方ないと思っていた。私だって、幸福を見られないので、嫌ってしまっていた。

けど、約束してきたきたんだという思いがこみ上げてきて、悔しくて泣いた。疲れて意識が薄れてくると、天井からなにかが大丈夫と言って笑って降りてくるのが見えた。主人の顔にそっくりな、黒人の男の子だった。翼があった。そのまま幽体離脱した(眠った)わけだが、天井付近まで登ると、記憶は保持できなくなっていた。また肉体に戻ると(起きると)、修羅の顔つきになる夫と向き合う毎日だった。

昨晩、主人が、その黒人の男の子の顔つきになっていた。

なので、アクセスしてみた。答えが返ってきた。

「なぜ、そんなに怖がっているの?心から愛しているといえばいいのに」

私がそれを言ってしまうことに、罪を感じるからだよ。私のようなひとに、愛されたいと思わないと思う。

「なんで?あなたが心から愛していることは、あなたがどんなひとであったとしても、悪いことにはならないのに」

そう聞いたとき、私は職場のあるひとを思った。正しさと愛は両輪ではあるが、ときに、ただしさが愛のバロメータになることがある。ただしさは研鑽するもので、愛するかどうかの指標にはなりえないのに、ただしくないことを以って、愛せないとするのはいかなるものか。なので、ごめんなさいと言った。人間関係調和の瞑想、の応用バージョンである。

それをしてから、また、主人にそっくりな黒人の坊やと向き合った。この子を見たとき、夫の過去世を思った。きっと、餓えに苦しんだろうなと思った。それで、尚、天使になることができたのは、とても大変なことだっただろうなと思った。なるほどな、とも思った。餓えに苦しんだレプタリアンの、地球での転生のひとつ、としては妥当だった。また、今生でも、夫は貧しさに苦しんだ。

彼の精進を思うと涙がでてくる。

(現世の夫は精進中なので、その波動はまだ出ない。ただ、怒りに転じるそのもとにあるのは、彼の優しさであることは確かである)

私は、正しくなかったのに、愛していると言っていいのか?と問いた。彼は笑っていた。

だから、恐る恐る、心の音で、静かに、あいしていると言った。涙がでた。

夫は、いかに自分のありさまが家族に不幸をもたらしたかを悔いていた。まだ、年末の出来事だが、夫の行動を監視していないかと怒った。私は、監視しているつもりはなく、ひとは忘れるものだから確認をしただけだと言った。夫は、「自分の悪癖が家族を傷つけるとは思いもしなかった、そのトラウマをおまえに与えたのは俺だ、その俺と生活するおまえが反応して恐れたりするのは当たり前だと思う。だが、その恐れを見ながら生活することは耐えられない」と言った。

私と、同じではないか。

私は、私を許すことで、夫を許すことができるのだと思った。

宗教に出会う前の、夫に恋していたときの、人間らしい感覚で、仏法真理を携えた私が、夫にこころから愛していると言えた。

黒人の坊やは笑っていた。私のほうがずっと楽になった。


実は、背中の痛みや肩の痛みのおおもとがわからなかったので、お風呂に入っているときに祈ったのだった。正体はわからないけれど、私の霊体の背中にある、負のエネルギーを吸い取るブラックスクリーンを取り除いてほしいと祈り、ヒーリングを自分にかけた。

背中は、責めているなにかがあるとき、だとばくっと知っていたが、これのことだとは思わなかった。でも、まだあるかもしれないな。他者を責めているようで、自分を責めているなにかが、ね。