光の感じ方
私が初めて総本山に行った時のこと。
初めて総本山に行ったときは、ひとり、だった。
そのときにはすでに三帰誓願もしていて、三帰することが霊的にどうなっているかもよく理解していた。そして、神仏というものも確信はしていたが、エルカンターレというものはよく理解していなかった。
このあたり、総本山に行くまでに私が知り得たこと、確信していたことを列挙する必要があると思うが割愛することにする。
ただ、私自身に起きた出来事と、人に起きた出来事を総じて、幸福の科学は、私が知っている宗教、というものではない、ことをよく理解していた。
ミネラルウォーターを飲み、大きな礼拝堂に入り、大きな御本尊を目の前にして、真っ直ぐ参拝場まで歩き、所作がおかしくないかどうかを周りを見ながら、ちょこんと立ち、まっすぐにご本尊を見上げ、とにかく感謝を伝えようと思った。
想いを言葉にするうちは、念いにはなっていない。
だから、私に起きたことを走馬灯のように味わいながら、すべてに感謝した。
ものの3秒だったと思う。
頭から肩へ、太陽光の暖かさが体感してわかった。屋内なのに、日向ぼっこしているように、頭から肩へ、日差しがさしているみたいな暖かさを感じた。
私はびっくりしてしまい、感謝どころではなかった。そういう装置が施されているかとも思って、あたりをキョロキョロした。
拝礼をもう一度してみたが、暖かさは感じなかった。
なので、感謝の心がパイプになっていることが鍵だとわかった。
後で、霊体質の法友を送り込むたびに、どうだったかを聞いたが、私のような感じ方をした人は一人もいなかった。
(めっちゃ泣いたとか、はよく聞く)
これを光と呼ぶのなら、光を受け取るのに必要なことはなんなのか、よく分かる。
神仏からの恩恵、目に見えないものに対する感謝の念い100%に、自分の心が浸されていること。
私達、霊能者だって、思うことを作為的に作り上げることはできない。根拠だてて感謝できることを挙げたとしても、自分の心が神仏に心が100%感謝することは難しい。
心は思考ではないし、心は感情でもない。
沸き起こる言葉にならない何か、が心だから。
愛する人が亡くなれば悲しくて泣ける。亡くなったから悲しいなどと思わずに、ただ、沸き起こる苦しみを味わい、泣く。
それとまったく同じことで、神があるから私は幸せだと頭で考えて、心のなかで言葉で列挙しても、100%にはならない。
目に見えない光を受けとるのに、感謝の念いが神仏と繋がるパイプになるのだとしたら、感謝は、どんな目に見えないものとも繋がるパイプだとも言える。
それをもって、私は、人間の心が創り出せる神仏と波長同通する波動とは、
現実的に何もしてくれないにもかかわらず、現実のすべては神仏の恩恵によって、私は生かされている、導かれているという謙虚さをはらんだ感謝だと
そう思う。
私達は、この世という現実を生きているので、そうそう、こんな想いになれることは少ない。私だって稀なことだ。
この世は時間がある限り、変化し続ける。それに適応していこうとすれば、忙しくて、それどころではない。
謙虚さをはらんだ感謝、を投げかけることができたのは
それまでに起きたことから私が確信したことの積み上げや、神仏への素直な畏敬、誰にも邪魔されないでひとりになることができたこと、が重要だったと思う。
100%、神仏に感謝するとき、この世にあるすべては、見えなくなる。
礼拝堂にいたひとたちも、椅子も、ご本尊さえも、消えて無くなるくらい、目に入らず、思考にも入らなくなる。
本を集中して読むとき、まわりが見えなくなる瞬間があると思う。あれとほとんど似ている。
だから、そんなふうに味わいたかったら、ひとり、になることが普通でないと難しい。同行した誰かに気を遣ったり、時間を合わせたりすると、気にしなければならないこと、がでてくる。
気にしなければならないこと、がある以上、念いだけにはなれない。
没頭できる時間を決めて、安心して取り組むのもいいと思う。
私の場合は、気を遣うので、誰かと行く、では、難しい。
霊能者友人は、その具合がよくわかっているせいか、一緒に行けば、みんな気ままに過ごす。時間も気にしないし、ご飯だからって一緒に食べなければならない理由もない。
同じ部屋だから、自分の歩いている道のそばにいたら、話しかけて、一緒に風呂に入る、そんな感じ。
でも、それでも、私は気を遣うので、那須に一人で宿泊したとき、夢で指導された。
ーーーー
人を連れて行くのをやめなさい。
貴方自身への指導だけで溜まってる。それだけでいうなら雲水で三ヶ月くらい時間が必要。
人を連れて行くことはいいことだけど、この世的な効率さを選んでるからそうなる。
貴方には、貴方向けの指導というものがある。
ーーー
2時間ほどして起きた。結構な数の指導霊がワーワーと話をしていたが、あまり覚えていない。
寝るは、瞑想と同じこと。寝たときに夢を覚えていないのと同じで、瞑想中、あまりにも高い次元のものにタッチすると、視界が白くなる。
…現実的に、肉眼で、視野が白ばむ。やり過ぎると、目をつむったとき真っ白になる。私達の造語で、ホワイトアウトと呼んでいる。
ブラックアウトだったことは一度もない。
夢という瞑想でワーワー、ひとりになりなさいを言われているうち、気づいたら、ホワイトアウトしていた。
(起きようとしたら起きれる浅い睡眠のような感じ。実際、起きれる)
ホワイトアウトしたら、寝落ちのようなもので、何も覚えていない。ただ、スッキリしている。
高い次元の情報ほど、言葉を持たない。むしろ、私達が言語化して理解できるもの、ではなくなる。
(さっきの感謝と同じ理屈かな)
つまり、ホワイトアウトは、しっかり指導されていること、にあたうる。その後の日常に変化があるはずで、それに気づかないから、ね、人は。
指導霊の指導の形は、こんなふうに行われることもある。つまり、ひとり、他者の存在を感じないで、精舎で寝た、夢ひとつないそれ、は、私達のホワイトアウトと同じものだ。
1番難しいのは、自分の心の方向。
神仏は尊きものだから私が理解する与えられる存在ではないにしろ、私の念いが伝わらないにしろ、そうせずにはいられなかった。私はそうしたかったんだ。
その、したいこと、が、理由なき、神仏への感謝であったから、光を感じれた。
まあ、霊能者だからって、生きている環境は同じなのだから、そんなことが毎日できるわけがなかろうw
その境涯をキープできれば幸せだと思う。けど、課題があるってことを忘れないで欲しい。
境涯をキープすることが目的なんじゃない。
信仰をよりどころにして、課題を解き続けるからこそ、自然に感謝が湧き起こる、というものだ。
だから、課題を解いている最中は、ご指導をいただいて課題を解くことを通して、神仏を近くに感じれることをとって感謝するようになる。
その場合は、また違った感じ方になる。苦しければ、その苦しみを理解しているからこそ発せられる仏言に心を響かせる。
貴方がたはひとりじゃあありません。
幸せな時だけじゃなく、苦しみにうちひしがれているときも、悲しい時も、私は共にいます。
ジッと黙って聞いていると涙が出てくる。あふれかえって泣きじゃくる。
そんな光の感じ方もある。
つまり、光とは、神そのものだと私は思う。