らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

鬼の研究

鬼をはじめて視たときはいつだっただろうか。

鬼にもいろんな種類があって、攻撃系の霊ではあるのは確かだが、恨みを強く感じるものもあれば、暴力性を強く感じるものもある。だが、どちらも、強い憎しみと暴力性があることは確かである。

バランスとして恨みが強いものを夜叉と表記する。これらは、少し、無知だとか愚かさを感じる。

バランスとして暴力性が強いものを鬼と表記する。こららは、少し、怒りだとか高慢を感じる。

どちらもどっこいどっこいではあるが、それでも、少しだけ差があるので、わけて書く。


夜叉系は、動物界で表現すれば、アナコンダである。つまり、蛇であるが、人身で見ると、歌舞伎役者が演じる般若の像容であり、その実態は、地獄絵図にでてくるようなやつ、だ。

鬼系は、動物界で表現すれば、狼や虎などである。つまり、獰猛な哺乳類であるが、人身で見ると、金棒やペンチをもった地獄絵図にでてくるようなやつ、だ。

なまはげも見たことがある。なまはげ族は、なぜか集団で活動していて、その様子は、コロボックルのちまちましているようにも見える。先の夜叉だとか、鬼だとかのダイナミックな影響とは違って、なんだか、小回り的な活動をしている。そして、なまはげは、何をしているのかわからないが、数ヶ月、夜中うちで夜警集団のような活動をしていた。しばらくすると、消失した。

その後、大黒天奉納をした。そのまた一ヶ月後、夢を見た。

家に電話がかかってくる。なんだか、クレーマーの電話だった。「今から、そっちに行くからな!」といきり立ったその声の持ち主は、すぐにうちに来訪して、夫が対応していた。夫婦の、小汚い服装をした太った貧乏たらしい姿だった。父は、御本尊の部屋で隠れて小さくなっていた。私が対応しようとすると、夫が手払い、相手を怒らせないようにしていた。その様子を見ていて、これは貧乏神なのか、鬼なのかわからないな、と想いながら、解決策を考えた。

指導霊団にお願いすればいいんじゃね?

すぐに家の前にパトカーが停まり、その夫婦を連れて行った。警察官は男女のペアだった。

なまはげ集団はいいものかどうかはわからなかったんだが、後に、悪い子をたしなめるやつだと聞いて、あの貧乏たらしい鬼を追い出す布石となるいいやつだったと分かる。以前も、生誕館で父以外全員「信仰の法」研修を受けた後、変なやつがうちにいたとき、私は失敗をしている。生誕館から帰宅してすぐに、山みたいなでかいものが家の中央に鎮座し、家よりも大きな図体のおじいちゃんがいたのだった。その様子は、亡くなった祖父に似ていたため、また、山のじいちゃんと祖父のことを呼んでいたために、私は祖父のなにかだと思って、邪魔をするな!!と怒っていた。夜な夜な、その山のような変なやつ、と喧嘩していたのだった。そのうちに、泣きべそをかいて、どこかに行ってしまったのだが

まさか、、、、の、まさかの、、、、高越山のあの方だったとは。

その泣きべそをかいた山を見送った一年後、高越山の霊言を生誕館で聞いた私は、呆然とした。四国正心館にいったときも、あの御方に深々と謝罪をしたものだった。

…もうちょっと、はやく霊言を出してほしかった。私のような信者もあまりいないかもしれないけれど、得体のしれないものがいたらそりゃあ、、、。

あのとき、高越山のあのお方を追い出さなければ、もっと違う今だっただろうか。

なので、なまはげを見ても、なまはげを追い出すことはしなかった。けど、頭が痛かったので、私も悪い子だったのかもしれない。いいですか、生誕館で家族全員で研修を受けたら、高越山が守ってくださいますよ。

(霊とは、個体霊もあれば、分霊を作れるものもあるので、そういうふうにできるんです。詳しくは経典を。)

夜叉は、耳周りのトラブル、ヘルニアなんかが主だった霊障になるのに対して、鬼は違う。肩や四肢への痛み、だとか、足がつりやすい、など。

まったくもって、日常のどこにでもあるトラブルである。


そんなこんなで、ある御方から厳しい波動についてラインがきた。厳しい波動がでている、と言われたらしい。厳しい波動って何よ、と思ったとき、支部のAさんを思った。銀色にも似た波動だが、光がでている銀色ではなくて、イメージで言うと「針の雨風」でひとをぶっ刺すような波動だった。

霊的な私が、Aさんと面と向かって話をすることはできないので、ただ、心配している。今も心配しているが、本人からしたら、「お前のようなものに心配されるような筋合いはない」ことだと思う。でも、あれは、ご本人ではないな、と思うのだった。

それを、ある御方が出しているのか???

あぁ‥もしかしたら。

裏を取ることにした。瞑想をしていたときに、KさんとSさんとYさんの順で映像が見えて、Yさんに至っては、なんと、鬼が見えたのだった。スレンダーな忍者のような刀を持った、溶岩のどろどろになった真っ赤な顔をしたやつだった。

わからないのでSさんにコンタクトをとった。魔とは1、2、3と現れる。その1、2、3の順であらわれたということは、Kさん、Sさん、Yさんの順に強さがあるだろうな、と思った。そして、それが見えるということは、私は未だに勝てないだろうそれだった。去年の10月だった。

Kさんが初級セミナーを終えた頃であった。心配をしていたが話をしてくれないので、どうしようもなかった。仕方がないので、一緒になにかをする、という手立てをとった。なぜ、話してくれないか、はわかっている。「らいらさんに話したら解決してしまうから話さない。」私が話すことは頭では納得できるが心で納得がいかない。それなら、最初から話をすることもしたくない。

そうだろ、Kさんww

そう言えば昨日も「天上界は頭がおかしい」と言ったのに、青年部長にまかせて私は電話を切ってしまったので、その話も聞いてみよう。

「天上界ってさ、ひとのためっていうけれど、本当にそれだけなんだよ。自他別個にあらず一体なりって言うけど、見返りも求めない、自己犠牲だとも言うけど、やつらはそれすらもないんだ。ひとのためだけなんだよ。とてもついていけない。そんなやつは三次元にはいない。部分的にそれになることはできるけど、生活してるんだからずっとそれにはなれない。不幸なやつ、幸福なやつがいて、不幸なやつを救済するではなくて、やつらは、不幸なやつも、幸福なやつも、もっとより幸福にするを考えている。それにはついていけない。」

…そのとおりだ。見返りという概念もないし、自己犠牲だからねなんて考えていたら、ひとのために思う塊にはなれない。ないということは、その概念すらもないということだ。だから、ひとのため、だけに在る。

だから、ひとつは、祈願という精進を与えられている。私達は生きてるから、天上界と限りなく一にはなれない。なれていない時期というものは、新たな課題にひとつ足を踏み入れているときでもあって、常にその状態をキープすることが精進ではない。稲穂の米を収穫するまでには、開墾からはじまる。土壌を開墾するときに、かつての稲穂を思ってはならない。

もっと言えば、自他別個にあらず、を三次元展開してはならない。仕事と愛、の経典にもあるが、三次元のそれとあの世のそれは同じではない。この世にいながらも、あの世にある天上界の光をおろしてくるということは、あの世のまま、生きるということではない。在家信者なら特にだ。

自他別個にあらず、とは潜在意識のことを言う。貴方の潜在意識にあるから、周囲の思想はそのまま固定化してある。自分の周囲の三次元にあるものとは、自分の潜在意識に眠るゴキブリのことだ。

そのゴキブリを祓い仏と理想を一つとした黄金色のものにするのが精進である。それがあれば、天上界よろしくより幸福にしていくことができる。

その様子は、自分の潜在意識を光にして、天上界と一体になりながらも、相対するひとの心を理解し、ゆるすことだ。そうすると、天上界と自分のパイプの蓋ははずれるし、ひとと自分のパイプの蓋も外れる。そうすると、ひとは、自分というものを通して、天上界のゆるしの光を浴びる。


もうひとつは、あなたのその言う「自己犠牲」の表現は間違い。あなたのいう「自己犠牲」は、本来漏尽通力にて調整するべきところにある。自我力を自己犠牲と呼んではならない。貴方の言うように、自我力を自己犠牲と勘違いして理解したら、後で、ケツをふくような事態になるからやめなさい。仕事と愛、など三次元的な世界をどう見ながら、宗教的愛に生きればいいのかを教示する経典にシフトしていきなさい。


「らいらさん、それができたら伝道ができるよ」

(そのとおりだよww)

その後、初級セミナーの頃のKさんの状態を調査した。また、最近、Kさんのところに来た鬼と幽霊について話を聞いた。Kさんは、レプタリアン族霊能者である。プレアデスとレプタリアンの仲良し、もいるんだぜ笑

で、Sさんの話を聞いてきて、Kさんの話も聞いてきて、ある一定の水準がでてきて、ああなるほど、とわかったことがあったから、書く。

(少なくとも、私の周囲の信者さんは、ほとんど、鬼がついている。全体的にそういう流れだから、「浮き出てくる」のはいつものこと。支部長は霊的な方なので、それを言うてみた。嬉しそうにニヤニヤして、いろいろ話をしてくれた。視える私からしたら、支部は、もう、安穏な場所ではない。満たされれば消失するが、そもそもなにかを満たすために支部があるわけでもないし、とりあえず、私は自己研鑽するしかないのである。)


「環境や状況、ひと、自分以外のものに問題を感じる」時点でアウト。


Kさんの天上界の表現はかなりヒントになった。天上界は、環境や状況、ひとに問題を感じるもの、は何人も存在しない。頭がおかしいと彼が言ったように、私達の想像を超える世界だと思う。そして、私が瞑想中に、鬼系列のそれが見えたのも納得が行く。

「世界伝道の一助となすことは、今この状況下において、今世無理だと推測する」と私は思っているからだ。それには、理由はいくつかある。自分の老い、もある。自分の状況、もある。自分の、、、できる量を考える。

継承も考える。継承先の実態も知る。支部の状況も考える。いろんなことを知れば知るほど、「絶望」が頭をもたげる。それでも、一歩ずつ、一歩ずつ、私はできることを取り組んできた。やれるだけはやる。悔し涙を流しながら。

世界伝道をイメージすればするほど、本気になってやればやるほど、できない、気持ちがでてくる。そのできない、に、自分以外の他のものに理由を置いた瞬間、自分の精進、から外れてしまう。その置いた瞬間、鬼にやられる。

それは経典の表記でも比較することで分かると思う。黒鬼だとか、役小角とか。

霊言を読んで、大事なことは、悪しき代表が何を主張しているかであるし、その主張と自分の主張が一致しているならば、抜く、反省する、やめる、を選ぶ必要がある。それが精進というものだ。悪い、と思えないなら、法にそっているか、にまつわって、法身と呼ばれるところの、法という仏に反する自分の考え、は、魔と通じている、と言えば分かるだろうか。

そして、常識的でもあるし、道徳的でも倫理的にもただしそうに思えても、魔となりうることがある。

(ここ、大事)

ふと、私は、SNSで信者さんのコミュニティに入ることを想像した。生理的な嫌悪さえあった。SNSをツールとして、何を目的にしたいか、で言えば、まっとうな理由がある。私のブログは、

○私が体験しているところから霊的なものはこういうことがあるよというお知らせ
○私みたいな精進をしているひともいるよ、霊的な信者って頑張ってるんだぞ
○文章を書く練習をしている
○友達に一括お知らせ

等を含んでいて、信者間のコミュニケーションをしたいと思っていないからこれでいい。けど、生理的嫌悪は違うんじゃないのかな、って思ったので、嫌悪を生んだその方を愛するイメージをした。同じスタンスじゃないってなだけで、理解できるのに、仲良くしないのはいかがなものか。

あ。なるほど。


父と骨肉の思想争いしたときも、ものすごい鬼が入っていた父。私にもだいぶ入った。なるほど。


精進は自分の研鑽であって、ひとや環境、実態、に、精進できない理由を置くな。
常に、仏の理想を実現するために、自分の精進だけを考えろ、だ。


それが、たとえ、間違っていると思う相手、に対しても、だ。