らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

霊能者が伝道すると成功しやすいか?

宗教は、スピリチュアルな世界を論理的に構造的に学問的に解明することができた、平静に生きることができた預言者のもと、神の言葉から生きる指針を見出していく、といったような世界である。

預言者でないにしろ、霊的世界をかいま見る、知ることができる霊能者は、その世界に導くことが、他の方よりも易いか?

否である。

経典にもあるように、霊能者及び霊障者は、その自身の体験や姿をもって、その世界は「在る」と知らしめるだけにとどめ、それを見たひとは自分が学ばなければならないとは「思わない」。

この世界を知って愕然としたことは、私は三帰さえすればこんなに違うのだ、という事実だった。だから、三帰を目標として伝道への道を開いた。それに霊能力を使ったことはあるが、それ自体が三帰へと繋がったわけではないと思う。

理由は、私が伝道した方々の比率を見ればわかる。うち、霊的体質の方は20%。80%は、私の現実の身近な方々であり、霊的体質ではないがために、私には必要がないと思われ、誘っても、なびかない。ただ、そうした世界は「在る」と思っているのは確かなことである。現実の制約、私の年代で言えば、子育てまっさかり、就労まっさかり、介護まっさかり、充実した時間のない日々を送っていて、プライベートな時間を捻出すること自体が難しい世代であるから、お話を聞く、にとどまる。

精力的だったあの頃、子育ての時間すら放棄できたのは、実家住まいだったから。私は、別居したがったが、夫が動かなくて動かなくて。ひとを巻き込んで迷惑をかけた上で、内覧を断った夫を見て、私はキレた。持て余した時間は、有効に使われるべく、読書する時間や好きな分野の活動をする、等、した。夫は、私のその姿を見て、付き合ってくれたが、全体的に、今から思うと「絶望」していたのかもしれない。

まぁ、そんなこんなで、霊能初心者の私は、経典を鵜呑みにしなかった。経典に書いてあることが本当のことなのか、自分の体験でもって、確かなことであると言えるまで、ひとに話すわけにはいかないという真面目ささえあった。3年ほどして、蓄積された自分の体験を通して、こういうことじゃないかと仮説を立てた頃、「新・心の探求」を読んで愕然とした。3年かけてわかってきた構造が、3行で書かれていたからだ。しかも、私が生まれるか、生まれないか、そんな頃に、とうの昔に明らかにされていたのだった。

衝撃的なことを受け入れるのに時間はかかるものだ。先人の智慧から知ることを、選んだ。

伝道したいと思わなかった頃、見よう見まねで、自分の「意思」だけを使って、祓っていたことがある。それ以外の祓い方を知らなかった。私が使っていたのは「心」の作用によるもので、5年ほどはそれがメインだった。やり方なんてものはなくて、その心に投じれるかどうか、でしかなかった。

霊能日記を読んだ読者さんとコンタクトをはじめ、悩みを聞いてきた。現実的に支援が必要なひともいたが、まぁよくある悩みなので、現在で言うところの「カウンセリング」をしていた。心理学部卒だしね。今は、所属しないでフリーでやっていたこの頃を危険だとは思うが、修行としてはいいボランティアだったと思う。

中には、数体ついていたひともいたし、近づいてはいけないひともいた。近づいてはいけない人は、私が「よく判断できない」ので、導き手に相談すると、たいていは、「近づいてはいけない」と言われた。その近づいてはいけない人は、現実的にはおそらく優秀な方で成功していたと思う。

かえって、まぁこれくらいなら、と思うひとは、どろんこまみれになっているように数体ついていた。けど、一体一体は、霊力の在るやつではなかった。相手とWEBページ上で話をしながら、遠隔で直接コンタクトするのだが、スーパーサイヤ人みたいに全身が総毛立つとたいてい終わっていた。私がコンタクトしているうちに、そのついている状態を「許せない」と全身で塊になっただけだった。翌日、コンタクトをとってみると、口調が変わっていたのでコンタクトを終了した。本人は自分の変化にも気づいていなかった。

女性霊がついていると、男性でも、「ジェンダー・フリー」みたいな状態になる。女性なのか、男性なのかわからなくなり、女性の口調になり、女性といたがるようになる。そんな自分を気持ち悪いと思いながらも、真剣に悩む。行動が女性化する。髪の毛を伸ばす。

それが正常化されて改善されたのを見て、しまいにした。なぜ、伝道しなかったのか?お伝えもしなかった。彼は「祓ってほしい」だけであって、その内容や本質的なことを知りたいとも、自分でどうにかしたいとも思っていなかったからだ。そういう方が大半だった。

私が導いたうち、20%の霊的体質の方は、このWEB小説がきっかけで知り合った、「気の合う、心の許せるひと」だった。心の許せるひと、でも、会うことが叶わなかったひともいる。今から思うと、ご主人があちら側の強い霊力の在る方、だったと思う。とても優しくて、賢いひとではあった。

つまり、私がこのひと好きだな、って思った方なんだ。好きだなって思った方と、邪魔をしてくる悪いやつと戦って進んだ道の先に、「三帰」があった。これは、私の失敗と成功の蓄積から一定の法則を見出すときの、大きな基準のひとつだと思う。

あとは、障害の取り除き方でしかなかった。私は「心を投じるやり方」しか知らなかったので、そうした。それは、客観的に見れば、「祈り」であった。後から、会内経典を読むに至るのだが、会内経典が示すところのそれはすでに行っていたあとだった。

「伝道論」
「異次元パワーに目覚めよ」

私の伝道は、心がこれらが示す項目に、一定の量満たしたときに成功した。というか、伝道に必要なのは、本当にそれだけだと思う。伝道していて成功したとき、私の力でなし得たと思ったことは一度もない。「三帰」にいたるケースは、全部、天上界からの支援や相手方の守護霊の思い、私の守護霊の頑張り、が必ずあるからだ。

それがない状態での「三帰」は、ありえない。なので、そちらから取り組むことが大事だと思う。霊的なことがわからないひとは、そんなのどうしたらいいかわからないわ、と思われるかもしれないが、経典通りのことを、「一方的に」こちら側が祈り続ければよいだけだ。

霊的存在のあちらの意向や思いを、受けて考慮し、どうしようかと思案する必要はない。現実にそれは現れてくるので、だいたい分かる。だから、三帰にいたって、現実にあらわれてくるそれ、をとって、自分を責める必要もないし、相手を責める必要もない。

責めるとしたら、経典通りに自分を投じていない部分を改善することだ。

しかも、その思いの積み上げというのは、家の基礎工事みたいなもので、一定の量、期間積み上げなければ、大きな波は来ない。やめてしまえば、その波すらも失われる。

子育てをしているあの時期、私は時間を与えられたために、できることは心のことだけだと思い、それができた。緩慢な毎日のなか、祈ることはできた。ちょっとお出かけをして、お友達や知り合いに話をすることはできた。その一回一回を、大事にした。

相手への感謝行も積み重ねた。だいたい、私だって、自分が霊能者という、大嫌いな分野にまさかの自分がそうだった、という事実がなければ、宗教などやっていたとは思えない。その私が、宗教をやりたいなと思うひとを見つけるよりかは、「宗教が嫌だな」と思うひとを見つけるほうが確率は高い。むしろ、見渡せば周囲はそういう方ばかりだった。だから、宗教の話を聞いてくれるだけでありがたいと思った。

私に心を開いてくれるから話を聞いてくれると思った。話を聞いてくれるその時間にありがたいと思った。私を愛してくれてありがとう、私をゆるしてくれてありがとう。伝道するとき、いつも、そう思って涙が出た。こんな話をしてごめんね、と思った。わからないのに話を聞いてくれてありがとうね、って。

そうしているうちに、導きたかった方ではないひとが話を聞いてくれて、ペンをとってくれることがあった。私の顔を見ながら涙を流された。驚いて話を聞いてみると、「実は私は世界救済教でね、貴方の顔を見ていたら、亡くなられた先生のお顔に見えるの、なんでかわからないけど、先生のお顔に見えてね、それを見ていたらなんでかわからないけど涙がでてとまらないの」そうやって、入会だけされたことがある。

帰って支部長にその話をしたら、わなわな震えて「らいらさん、それは本当のことですよ、経典に亡くなられた開祖の方が、弟子を幸福の科学に入れたいって言っているんですよ」と言って興奮していた。私はそんなことが起こるのか、と自分が憑依された感覚があったかな、と思いながら、振り返ってみた。

高次元域の存在が憑依するときは、身体感覚に違和感はない。体が楽になる、とか、なんでかそうしたらうまくいった、などは、高次元の支援が必ず入っている。

まぁ、そんなことでね、お祈りが大事ですよ、と話をしたとき、信者さんがじゃあやってみるわ、と話されて遠隔で状況を見ていたことがある。3体支援に入っていたんだけど、信者さんのほうが、支援する高級霊に心を繋ぎきれていなかった。3体も支援に来ていたのに、伝道相手の方の「戯言」に反応してしまい、支援と信者さんの繋がりが完全に分断されてしまった。

結果は、失敗。そりゃ、、、そうだと思う。


こうやって、天上界の支援は厚く入っているのにもかかわらず、祈り手のほうが、天上界と分断してしまうがために、光が地上に降りきれないで、蓋をしている状態というのは、ある。

天上界と繋がっている状態にはなれても、相手をさばいてしまう、という人もいる。…あのね、その状態になっていること自体が、「天上界と繋がっていない」んだよ。

天上界はゆるしの世界にある。だから、目の前にいるひとがどんなひとでも「ゆるしている」。生きている人間からすれば、頭がおかしいんじゃないかと思うくらい、「ゆるしている」。一個、一個見ていけば、悪人などはいないがよろしく、ひとりひとりに対しては完璧に「ゆるしている」。

…昨日も若い霊能者さんが「あいつら、頭おかしいからついていけない」と言っていたが、本当のことだ。ひとりひとり対峙するときには、そういうもんだ。のまれて悪に染まったり、怒れたりするのは、もう、あなたの法力がないんですよ、なのだ。法力というものは、ああしたものですよ、なんて説く必要すらない。天上界のゆるしの光は、改心をひきおこす。

その光を、地上におろさんがため、信仰による奇蹟を信じて、笑うんだよ。まぁ、これは、難しいんだけど、度胸でいけww。要るのは覚悟だけだww


私だって、うまくやれない。にんげんだもの。ただ、こういうことなんですよ、と言いたかった。


相手の守護霊の想い、というものもある。相手の守護霊の意向で、導き手を選ぶこともある。

先日、伝道師さんの占いに友人を連れて行った。その友人は、スピリチュアルな世界は嫌いじゃないけど、入りたくはない、というので、無理にお誘いをしなかった。お誘いはしなかったが、幸せになりたいという。状況的に無理がある障害があるので、万策つきたため、なにか手立てはないかと想い、伝道師さんのところで、占いでもしてみれば、と誘った。

まぁ、その伝道師さんもがっつり霊的な方なので、私と同じようなものを見て、ああこりゃ無理だわとお話になられた。悪霊を祓うことはできるが、縁者なら無碍に祓うことはできない。相手だって、「いつのまにか、ここにいるんだ」という状況だし。

支部にも連れて行けず、入りたくないとのことだったので、つないだ伝道師さんに結果を伝えたが、占いのときは「わかった」と言っていたのにね、と言われた。

…たぶん、相手の守護霊さんが、私を拒否したのだと思う。あちらの方は、竜宮界系の方で美にうるさい。私、美はあんまり興味がない。私のそのていたらくに、あちらの守護霊が、「軽蔑」しているように思うのだ。だって、コンタクトしても「話さない」のだから。


つまり、現実的な自分、というものが、相手方にとって、「あんなふうになってみたいな」と思えるような優れていくことも必要不可欠だってことなんです。


まぁ、つまり、超能力的なことがあっても、一般の方のそれと変わりはない、ってことですね。
言い訳できない、だけ、自己研鑽は積めるのかもしれませんね。