らいらの部屋

らいらの霊能精進日記

大悟の法

息子が帰宅をしている。しばらく休みたいと言う。

 

その理由を聞くと、クラスで、気になる友人がいて、ストレスが高くなっていてやすみたいと言う。

 

話を夫婦で聞いてみる。夫は、息子に共感している。息子を否定していないのは素晴らしい。でも、解決法を伝えるわけでもないので、息子の倦厭感情を煽るようにも見えた。

 

夫は普通の人であるし、宗教的なことに感心があるタイプでもないし、教育畑でもないから、そこで精一杯なんだなあと思いながら、息子の様子を見ていた。

 

現実的に寄り添いと吐き出させる、は、夫に任せたので、頃合いを見て、口を出した。

 

その子のその行為が気になるってことは、自分がその行為はダメなことに気づいたことがあったんやね?

 

最初は、私の言うことがわからなかったみたいで、何回か同じことを伝えた。

 

数分の沈黙のあと、今年の夏に、息子がある反省をしたことを教えてくれた。それは、私が、学年崩壊した息子の卒業式後の、担任の先生の様子を伝えたことから始まったと言う。

 

息子は自分のことで精一杯で、自分以外の人間の立場や人生を考えられなかったのは普通だと思う。でも、事後を見ていた私は、その後のこと、を息子に伝える機会を夏に得たが、その後の息子の気持ちのところまでは把握していなかった。

 

聞けば、言葉がいくらも出てくることから、強く自分を責めているのがわかった。当時のことをすっかり忘れていたが、はっきりと自分のしてきたこと、を思い出したと言う。

 

夫自身は、学校が嫌いで、学校の先生を強く責め続けているので、息子の話を唖然として聞いているようだった。先ほどまでの、感情を煽るような、軽快な口調は消えていて、戸惑いが見られた。

 

私と長男の、その様子を見るのも、初めてだったかもしれない。長男は荒れることがほとんどだが、そうした心の話について、自分が困っていることがあるとき、私の話は、誠実に聞く。聞く姿勢があるときは、数時間でも聞ける。

 

聞く姿勢がないときは五分で破裂するが笑

(それがほとんどかな笑)

 

夫は傍観者になった。

 

 

息子がクラスメイトに気になっていること、は、世の中に、当たり前に起きていること。

 

その当たり前なこと、は、なぜ、起きているかというと、それぞれが、集団生活のなかで、自分が慣れるために、工夫しているから。

 

(バス旅行で、騒がしくしているのは、バスの長い時間をどうにか楽しみを見いだしてる、だけだとか、そういうレベル。息子は、騒がしいのが苦手だ)

 

それぞれの、その工夫は、ルール内のなかで尊重されること。

 

(お互いさまだ)

 

悪いことだと分かってるなら、人はやらないこと。悪いことだとわからないから、やっている。それは、大人になっても、よくあること。

 

(それこそ、お互いさまだ。歳を重ねても、自分が悪かったと分かることは、よく出てくるものだ)

 

そのなかで、人の行為が嫌なふうに気になるとき、それは

 

自分がダメだったなと気づいた自分の過去の姿を、自分が許せてないからだ、と指摘した。

 

ここで、息子と夫の頭の中で、クエスチョンマークが舞った。

 

なので、理屈を伝えた。

 

 

自分が悪かったと心で責め過ぎると、それと同じことをしている人が目について、責めるようになる。自分を責めれば責めるほど。

 

でも、その人はその人の人生を生きていて、その人が分かるようになるまで、それは続くだろうし、自分の目から見た事実が真実であるかどうか、確かなことかはわからない。

 

自分の反省が終わったら、次の段階がある。

 

それは、自分を許すこと。そうすれば、人も許せるようになる。

 

でも、ここで終わりではない。

 

その次の段階は、その状況でどうしたらよかったのか、を分かること。しかも、許さないうちに、その解決法を知れることはない。その解決法を知っていれば、そもそも、そんなことは起きなかった。知らないから、自分を責めたり、人を責めたりする。

 

だから、一番大事なことは、それを知ることだ。その解決法は、智慧といって、ある種の悟りなのだから、ここまでくるのは難しい。

 

 

途中で夫が、いい具合に、自分を許すための材料として、息子がいた環境というもののせいではないか、と合いの手を入れた。

 

なので、すかさず、その環境というのは、息子と同じように解決法を知らなかった人の集まりでしかないことを伝えられた。

 

今の息子のように、自分への強い罪悪感から、人を責める、という心のうごきがあって、無意識に作られたもの。

 

もちろん、現実に起きた出来事、への善悪はある。それへの指導はもちろんすぐさまにできる。目に見える、誰でも分かること、だからでもある。

 

強い罪悪感が引き寄せ、起こす衝動のぶつかり合いは、目に見えない。悟り、を呼び起こすもの、は、ゆるす力なしには難しいのだった。

 

そのあたりを伝えてみた。息子も夫も、なんとか、ついてこれる内容だった。

 

そうしたら、息子がポツリと言った。

 

自分を許すのは難しい。どうやって許したらいいのか。自分がしたことを思うと、許すことがどうしても難しいと。

 

許すことは、私も長らく、理解が出来なかったから、よくわかる。私にとって、罪を許す力、というのは、一番関心があった教え、であるし、難しかった内容だった。

 

教え、としては分かるが、それを具体的な自分のこと、に合わせると、どう教典どおりにしたらいいかわからなかった。もっと言うと、経典の内容とかけはなれているようにも見えた。

 

かけはなれて見えるのは、内容が高いところ、つまり、さとられているところ、から話されているのであって、ひとつ、なんとなくつかめてくると、すべてが、それ通りだと言うことがわかった。

 

私の内にある罪を、それどおりに、濾過、浄化して、習慣になるまで10年かかった。理解するまでには8年くらいだと思う。

 

理解ができたら、パターンにすることで時間を早めることができた。でも、強く深くあるものは、やはり時間も難易度もあがるので、当たり前のように、研修や祈願をあてがうように習慣化は問われた。

 

そのあたりは詳しくはなさずに、大悟の法に、ひととおり書いてあるから、それを読むことからだと伝えた。多くは語らなかった。ただ、読みなさいと。

 

夫は、自分にはない発想に、びっくりしながらも、どう息子を励まそうか、考えあぐねいていて、何か反応しようとしていた。

 

無理しなくていいと思ったので、夫も頑張っていることを伝えるように、夫の責める何かは、自分への強い責めである事例を、出した。

 

爆音暴走族である。夫は、爆音暴走族に強い憤りを持つのが異常だ。私からすれば、夫と同じにしか見えないのだが、自分はしていないと言う。

 

昔の俺は走り屋であって、暴走族ではない。

 

私は、それを知ったのも最近だし、騙されたようなものだ。そもそも、私らからしたら、走り屋も暴走族も、はっきり言えば、同じなんだよ。

 

自分達は違うと言うけど、それは、あなた方の世界の話だ。私らの世界は、そもそも、そんなことはしない。

 

その数秒後、狭い車道で対向車がスピードを落とさない出来事があった。長男は反応した。危ないだろうと。

 

あの車は、私らの車を見越してスピードを落とさなかった。それは、パパもやるでしょ。私はそれは絶対にしない。されたら嫌だからしない。

 

(運転してるのが)パパだからでしょ。

 

で、息子は小さく唖々と言い、夫は、忙しなく動くことで、私の話がまとわりつかないようにしていたように見えた。

 

 

まあ、そんなことで、ようやく好調の兆し、が見えてきた。