ゲシュタルトの祈り
ヲタの私は、これってどういうことかなって、考えるとき、とにかく調査しまくる。
自他別個にあらず一体なり
ともに仏子の兄弟なり
ってぶぶんのことと
現代の法難シリーズだとか
魔がひとに考えるそれの違いについて考えてたの。
違いなんて明白で、方向は違うから、容態は一緒でも、質が違うんだよね。
魔っていつもそう。
でも、感覚として
人類皆兄弟、と、ともに仏子の兄弟なり、も違うと思うの。
たしかに、潜在意識は、ひとと繋がってるけど、たいてい、神様を通じて、繋がってるの。
ひととダイレクトに繋がってる状態って、ひとを憑依してるようなもので、かなり、違うの。
それに、そうした場合の霊障はとんでもないし、現実にそういう行動をするのも、他からは、おかしく、不快に感じられることが多くて、やっぱり違うなって感じがしたの。
例えば、こちらが、過ぎた行動、与えるときの判断をしないで動くと、制止されることもあった。
なんでかなって思ったら、責任、がそこにはないような、そんな感じがした。
それに、私がそうしたら、まわりもそうしなきゃいけない想いにもさせるようなことがあって、
よくわからないけど
やっぱり、現代の法難シリーズの、ひとへの見方のところに焦点をしぼったとき
やっぱり、なんかおかしいと思って
たまたま読んでいたゲシュタルト心理学の内容が気になって、読みふけったの。
ひととひととの関係、についてで、自分の思いがひとから作用されない解放、の論理が書いてあって
この感じは、プレッシャーを人に与えるものかもしれないと思って
経文とは真逆の、あなたはあなた、わたしはわたし、、、って言うゲシュタルトの祈りをしたことがある。
これ、わたしを操作したいと思う人、だとか、とりこみたい人だとか、そういう人が明らかになった。
当たり前なのに。
よく考えたら、当たり前なのに。
共に仏子の兄弟になるためには、同じ、には、ならないのに。
それぞれの精進があるのに。
そうした方向では、一丸となるのに。
私の一部のように見るんじゃなくて
仏の一部と仏の一部という構図なのに
そんな当たり前のことが欠けたまま
自分の心のなかに、ひとを入れてしまったことが長くあった時期があるのを
思い出した。